しょうがの味は熱い


 同棲カップルと二人の倦怠という、綿矢りさにしては少しありふれているというか平凡な設定だと最初は思った。「しょうがの味は熱い」と「自然に、とてもスムーズに」はいずれも会社員の絃と、児童館でアルバイトをしている奈世の同棲生活を書く。同棲のディティールがやたらに細かい表題作と、籍を入れる寸前まで行って奈世が実家に帰ることになり二人に距離が生まれてしまう「自然に、とてもスムーズに」の二編の間には、数年の時間が流れている。綿矢自身、表題作は2008年に書いているが、続く短編は2011年に書いている。この間隔は必然に仕組まれたものか、それとも。

 前述したようにとにかく同棲のディティールだけが色濃く書かれる「しょうがの味は熱い」は同棲カップルをさほど幸福には書かない。とはいえ不幸であるわけではないかもしれない。絃の性格は言ってしまえば草食系で、仕事には最低限の期待しかせず(仕事ができないわけではない)、奈世と同棲してはいるがその先のビジョンをはっきりと持っているわけではない。絃からしてみれば奈世が押しかけた形で成立している同棲は単純に物事の帰結であって、期待したものでもない。

 対して奈世ははっきりとビジョンを持っているタイプだ。これといった理由が明かされるわけではないが、いずれ絃と結婚することだけは確実なものとしてとらえている。同棲は結婚へのステップであって、同棲→結婚というふうにはっきりとベクトルが描けている。絃にそのベクトルがない(「自然に、とてもスムーズに」においても、はっきりとあるとは断言できない)ことが、二人の関係をぎくしゃくとさせていく。とはいえ修羅場のようになるわけではない。絃にとってはデファクトでしかない奈世と、奈世にとっては希望であるはずの絃がすれ違ったたとしても、絃はそれを受け入れてしまう。

 「自然に、とてもスムーズに」における奈世の逃避行は奈世自身の変化でもある。表題作では、とにかく奈世は移動しない。児童館でアルバイトをしていて、子ども相手にピアノを弾いてるらしいということは書かれているが、彼女が部屋の外から出るシーンはほとんどない。対して絃には会社のシーンだとか、飲み会のシーンだとか、つまり部屋の外で奈世以外の誰かとコミュニケーションをとっていたり、仕事のようなやるべきことをしている様子が書かれている。この対比を、今度は奈世が覆していくのが「自然に、とてもスムーズに」の構造だろう。

 ひっくり返された絃にとって、2人でいた空間と時間が自分1人のものになることでそれらが可処分なものへと変化する。ある意味予想されたことではあるが、新しい空白に奈世を求めようとはしない。奈世は奈世で、できるだけ、可能な限り絃から離れていこうとする。ある意味、距離を置こうという奈世の選択はうまくっていると言える。

 もしこの展開で絃が一念発起すればドラマチックなハッピーエンドにつながったかもしれない。だがもちろん綿矢はそうはさせない。では変わらない男と、変わっていく女という構図なのかというと、必ずしもそうではない。なぜならば奈世ははじめから結婚することしか考えていなかったからであって、奈世にとっては結婚に至ることが必然なのだ。行動様式は大きく変わっているが、奈世の本質的な部分は変わらない。だから故郷の両親は、見かけ上の奈世の変化にだけ気をとられ、彼女の内面までは見えていないという対比が実にクリティカルになっている。「自然に、とてもスムーズに」という現実の二人とはかけ離れたこの言葉も、対照的にすぎる両親と娘の関係、あるいはその世代の差を表しているようにも思える。

 絃を頼るしかなかった平凡な若い女の子である奈世の行動に読者は驚かせられる。しかしながら、彼女の持ち得た冷静さは、彼女自身をもメタ化すること(「自然に、とてもスムーズに」における文体の変化)を可能にした。絃を翻弄するだけではなく、読者をもさらに翻弄していく。その(ある意味根拠のない)強気こそ、綿矢りさの書くヒロインであると強く実感しながら二つの短編を読み終えた。


2016/3/11

初版
2012/12(文藝春秋:特設サイト) 
2015/5(文春文庫) amazon(kindle) honto

 

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