夢を与える


 最初は一人の女性の物語として始まったこの小説は、一人の男と出会い、半ば策略的な結婚をし、一人の娘(夕子)を産み、その娘が子役タレントとして飛躍していく。飛躍ののちの転落も含め、ありふれている出来事のようでいて、あえて夕子という10代の少女の自我をクローズアップしていく。「夢を与える」というタイトルから連想しがちなサクセスストーリーではなく、「夢を与える」存在になることを求められた少女の反抗の物語として読まれるべきだろう。周囲の期待に背くことすら夕子にとっては痛くもなく、夕子は自分自身が自由になることを(それはつまり、「夢を与える」存在から降りて、乖離していくことを)選択しようとする。その長いプロセスを、綿矢が『蹴りたい背中』から約3年のブランクの後に書き上げた。

 落ちることを強調したあとにあえて指摘すると、途中まではサクセスストーリーとしてのレールにきれいに乗っていく。子役のうちに名を馳せてもそのあとが続かない例があることも事務所社長や沖島というマネージャーは意識しており、夕子を育てようとしていくのだ。それはもちろん、演出込みの部分も多く、夕子だけではなく彼らの利益にもかなっている。そういう風に利用されることを、夕子は拒絶しようとはせず、利口に受け止めていくのが印象的だ。ストイックなほどに、学校生活といった普通の女の子の幸せではなく、自分の役割を意識する。

 意識しながらも、そこから逃れようと夕子が決意するのにはいくつかのターニングポイントがある。その大きなのは恋愛(それ自体がスキャンラダスでもある、恋愛)で、夕子が女の子から女に変わっていく途中で当然通過するべきところだ。この恋愛を、単なる通過点として書くのではなく、夕子にとっての大きな転機であるかのように綿矢は記述していく。そうして始まった夕子と正晃との恋愛は、始まった当初からまともな行く末が見えないような恋愛に見える。転落は、間近に迫ってくる。

 綿矢自身、長いスランプを経て書き上げた小説だからかもしれないがここまでかというところまでヒロインである夕子を落としていく。ありがちな、そのありがちすぎるとも言っていい落ち方を、夕子がどのように受け止め、周囲と隔絶していくかが面白さなんだろうけれど、すがすがしいくらいの突き放し方には悪意とは違う何かを感じる。悪意と言ってはつまらないの。綿矢自身の開き直り、かもしれない。というのは、転落し始めてからの夕子のほうがそれ以前の作られた「夕子」ではなく、一人の少女としての夕子として書かれているからだ。解放と言ってもいい。転落と引き替えの解放は、もちろんつかの間の幸福は生むが、悲劇の始まりでもある。

 夕子はそのことに自覚的でなかったように書かれるのが少し不思議でもある。たとえば、自身の性交の様子がネットに流出したり、そのことをきっかけにクビ寸前の事実を突きつけられたりするが、何も知らなかったかのように驚く。途中までは頭のいい女の子として書かれる夕子も、「夕子」のかっこがとれてしまってからは、以前との彼女とは一線を画したような存在になってしまう。この断絶は解放の表れなのかもしれないし、夕子の獲得した自由の帰結とも言える。

 やはり劇的な救いなんかなくて、ありふれているドキュメントをありふれてない形で終わらせていた。最後の最後にあるインタビュアーを用いながら間接的に夕子の心情を吐露させるシーンはそこまでやるかとも思いながら、最後まで読者を突き放した形でオチをつけようとするところには好印象を持った。そういう風に終わることは中盤以降の墜落からはわりと目に見えていたことだし、その順当さとも言っていい流れを裏切らなかったのは、綿矢なりの素直さや誠実さなのかもしれない。

 あとあとになってみると(たとえば『ひらいて』の後半の展開や、『大地のゲーム』の結末を想起すればよい)綿矢にしてはおとなしすぎるとも言えるが、しかし一つの物語を「終わらせる」ことにこの時期の綿矢にとって大きな意味を持っていたのならば(曖昧な仮説でしかないけど、そうだろうという気はする)この小説にも意味はある。


2015/5/24

長編

Information
初版
2007/2(河出書房新社)
2012/10(河出文庫)

amazon(kindle)

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