インストール


 読み始めてすぐ気づくが、「インストール」はなんだかんだ綿矢りさの小説なのであって、会話も設定もいろんなところがぶっとんでいたりするわけだけど、アンバランスのバランスというか、変なところでちゃんと世界が成り立っている安心感がある。『蹴りたい背中』もそうだったが、不安定なのは主人公の女子高生のほうで(綿矢の自意識がどれほど入ってるのかは知らない)主人公のみつめる男の子はたいてい安定している。無駄なくらいに。だけれど、そのアンバランスのバランスがないと、つまりつりあっていないとそもそも物語は生まれないよね、という信念を強く感じる。

 高橋源一郎が文庫の解説で何度も綿矢の文章は完璧、とやたらほめちぎっているのはよく分からないが、分かることと言えば、まだ女子高生だったころの綿矢の文章には女子高生が書いた女子高生というイメージがはっきりと映し出されているということ。彼女の書く女子高生だから等身大とかそういうありふれたことではなくて、フィクションの女子高生を、フィクションじゃない(現実世界の)女子高生が書いた小説を、しかもそれなりのクオリティで読むことはほとんどないということを改めて考えながら読むことの面白さにはあふれている。

 ちゃんと読めば年齢なんて大した意味は持たないんだけど、それでも破天荒で調子乗りな「私」の端々に、10代らしさがこもってないとすることもきっとできないんじゃないか。大学生の日常を書いた併録短編「You can keep it」を読んでもそんな感覚を持つ。これらの二つの小説を読んで、じゃあ何を感じたか、何を書けばいいかというと、すんなりと出てくるのはこれくらいだ。印象的な台詞回し、そもそもどこかズレている「私」の感覚。ズレた「私」の感覚は最後まで修正されずに威力を残すことに、いくらかの意味がある

 綿矢りさの最近の小説を読んでも意外なことではないが、「私」は「私」自身に対しては自覚的であって

何が変わって? 何も変わらない。私は未だ無個性のろくでなし。(河出文庫版、p.128)

 と、はっきり書かれてある。エロチャットで稼ぐためのコンビを組む小学生、かずよしに対しても余裕を見せる「私」は、「私」自身に対してもどこか余裕を持っている。たとえ、出席日数が足りてなくて留年が確定しそうでも、そもそも親や学校とのコミュニケーションが成り立ってない状態であっても、「私」が「私」であることに関しては無自覚どころかやたら自覚的だ。学校や家庭といった、いわばソーシャルな空間からは隔絶した状態の「私」は、自由を獲得した状態でもある。

 立場的に大学生という形で自由を謳歌できるはずの「You can keep it」は逆に友人関係などのソーシャルな関係にがんじがらめになっている、という一つの「残念さ」を綿矢りさは表現する。プレゼントを送り続ける行為も、「残念さ」の象徴として読むことだってできるだろう。そこに嘘が混じっていたとしても、贈与という行為そのものは偽りではない。ここにも一つのアンバランスなバランスを感じる。人間関係とはそういうものだ、という10代だった綿矢りさの、ある種の達観のような感慨を覚えなくもない。まあこのあたりは、10年以上経っても、一貫しているところかもしれないが。

 いずれにせよ、デビュー作を読み返してみて感じることは、この時期から綿矢りさは綿矢りさだったという、ごくありふれたどうしようもない感想で、でもその感覚は悪いものじゃないということだろうか。プロとして書かれる10代の小説を読む機会は、そう多くない。


2015/4/4

中・短編集(1.インストール 2.Youc can keep it)

Information:
初版
2001/11(河出書房新社)
2005/10(河出文庫)

amazon(kindle)

 

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