パノララ


魔法にかかったループの出口はどこにある?

 いままで書いてきた中編や長編は文芸誌への一挙掲載もしくは書き下ろしが大半だったはずなので、長編としての連載作品の書籍化は15年近くにのぼるキャリアのなかでも初めてになる。連載中のタイミングで並行して発表された『春の庭』で2014年の7月に柴崎は芥川賞を受賞することになるが、この作品で受賞が決まって一番驚いているのは本人かもしれない。土地と人の関係性を書くという前提を前面化して書かれたのが『春の庭』だったが、土地の必然性はかつて関西を舞台にして書かれた小説よりは強くなかったからだ。

 話を最初に戻して、この『パノララ』にも『春の庭』との共通項が多く含まれることが分かる。東京の、おそらく都心より西側を舞台にしているらしいこと。いずれも一つの家を舞台に物語が駆動していくこと。登場するのはいずれも若い男女であること、だ。『パノララ』が柴崎の小説として少し特異なのは、意図的に時間のトリックを用いていることと、長い時間をかけて家族の内実を小説の中に取り入れていることだ。時間のトリックについては重要かも知れないし、そうではない。重要かどうかは状況によって決まってくるのだが、一番重要なのは時間の不可逆性を超越してしまったキャラクターたちがどう受け止めるかだ。幸か不幸かは試してみないと分からないのがループのつらいところであるが、フィクションでしか成立し得ない時間のループはキャラクターたちに何らかの気づきを与えるのも確かだ。そのあたりは、ある意味無難に踏まえていると言える。

 柴崎が家族の問題を取り入れたのは理由があってのことだろうが、もっとも必然的な流れとしてはキャラクターの生きる人生に家族の問題がどうしても直面してくるというどうしようもない現実があるからだろう。柴崎はファンタジックでドリーミーな物語を書くときもある(『ドリーマーズ』や『週末カミング』のような短編集では得意としているし、『寝ても覚めても』や『わたしがいなかった街で』も実存がおかしい小説だ)が、キャラクターの生きる土地や流れている時間のリアリティは必ず取り込んでいる。先ほど説明したように、本作ではループを経験するキャラクターが登場するわけだが、ループによって得られるリアリティをキャラクターの内面にフィードバックすることでさらに物語を前進させるという誠実さを柴崎は忘れていない。ループはすべてを解決しないが、何もできないわけではない。あくまでループの帰結をどう受け止めるかなのだ。

 ここでいうどうしようもない現実とは主人公の田中真紀子が居候することになったイチロー(正式には壱千郎だが、表記としては終止イチローが用いられる)一家の内実と、関西で暮らす真紀子の両親との関係性だ。真紀子は離れて暮らす両親から様々なプレッシャー(一人暮らしへの不安、将来への不安)を受けつつ、イチローの両親やイチローの女きょうだいたちの生い立ちや現状に触れていく。最初は触れる程度だったものが、だんだん足を踏み入れていくまでの過程が『パノララ』という小説のストーリーラインと言ってもいい。

 イチロー家には様々な謎があるし、ループの理由もはっきりしない。だがこの小説はミステリーとして書かれているわけではないから、理由は重要ではない。ループが導く帰結と、そのプロセスが重要だ。

 ループは突如起こるものであって、不可避なものであるが、かといって『魔法少女まどか☆マギカ』のように絶望的なループでもない。イチローがそれを経験したことを知った真紀子もある日突然ループを経験することになるのだが、それは彼女に何をもたらしただろうか。ヒントはイチローの姉(文)と妹(絵波)にある。文は大学卒業後就職した会社で人間関係のトラブルに巻き込まれ、自宅で細々と絵描きの仕事を請け負っているが、絵波は対照的に海外留学や映像関係のサークルに顔を出すなど、かなりアクティブな存在だ。イチローは最後まで何をやっているか分からない存在として書かれるが、二人の姉妹についてはかなり詳細に過去と現在が記述される。真紀子が女性であることも手伝ってか文の背中を押したり、絵波と一緒に撮影のワークショップに出かけたりしているが、真紀子と文、真紀子と絵波の関係性は互いに依存しすぎることなく共闘する、ささやかな女同士の同盟を感じることができる。

 イチロー家が家族の問題を抱えているように真紀子もまた、両親とのコミュニケーションにうまくいっていない問題を、大阪と東京という距離を隔てて抱えている。仕事がものすごくうまくいくわけでもなくいつも先輩に気後れしてしまう真紀子は、いままでの柴崎友香の書いてきたヒロインの中ではとにかく地味だ。『フルタイムライフ』の主人公が小さな経験を積み上げながらゆるやかに成長していくことを考えると、都市部で仕事をするワーキングウーマンとしての存在はかなり小さい。けれども、『わたしがいなかった街で』を思い出すようなゆるやかな決意こそが、本作の持ち味として光っている。それだけが唯一の救いとも言えるかもしれない。ネタバレになるが、『わたしがいなかった街で』のわたしがドキュメンタリーの映像を繰り返し見るように、真紀子は何度も映画の撮影を繰り返し体験する。真紀子にだけは次に何が起こるのか、起こってしまうのかが分かってしまう。『まどマギ』のほむらがまどかを助けたかったように、真紀子も決断を迫られるのだ。

 終わってみるとたったそれだけのことでも、あるいはたとえ小さな積み重ねであっても、長い目で見ると人によってはインパクトを残すことがある。イチローのようなタイプの人間は多くのことを真に受けずに受け流すタイプだろうが、真紀子の場合は真に受けすぎて疲弊するタイプだ。その性格を変えることは難しい。しかし、受け止め方を変えたり、ちょっとずつでも決断したり、思いを伝えることができる。ほんの少し、自分で自分の背中を押すことならできる。誰だって助けがほしいときは背中を押してほしいものだけど、文や真紀子がそうであるように、それができれば苦労はしない。かといって血縁や職場の人間関係が頼れるわけではない。だからこそ、身近でのふとした出会いが思わぬことで救いになるかもしれない。都会に生きる弱き者たちが「連帯」するわけではないが、「共感」くらいならコストもエネルギーもいらない。

 その共感を引き起こし、背中を押すマジックがループだとするならば、そのプロセスで試されるのは自分自身の思いの強さに他ならない。柴崎の書くヒロインなら、思いを強くするくらいのことならできる。そのあとの結末は推して知るべしだけど、本作の中にも『春の庭』同様、これからの柴崎友香の小説がどこへ向かっていくのかを読み取ることがいくらかできるのではないかと思う。時間と空間を不器用に、しかし誠実に操る柴崎のマジックは、これからもっとこなれていくのだろう。


2015/2/22

初版
2015/1(講談社)

【Information】
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