春の庭


これまでとこれからの柴崎友香を読む

 芥川賞をとる前の最初の読みと、とったあとの再読でいくらか印象が変わってしまったのが正直なところ。まだうまく消化できていない部分(たとえば、なぜこのような語りの形式をとったのだろうかという点ははっきりと分からない)はあるが、前後の差異も含めて詳しく書いていこうと思う。ちなみに、芥川賞をとったから印象が変わったのでは全然なくて、あくまで二回読んだらちょっと違って見えたという程度である。 そしてそういった感覚は柴崎友香の小説においてなんら珍しいことではない。

 さて、柴崎が今作で試みたことはいくつかあって、特にらしさである「わたし」を暫定的に封印したことは新しい試みと言えるだろう。三人称の視点を複数用意することにより、いままでなら「わたし」の目線からつづられた様々なことを拡張し、多角化している。ある家の謎(というほどではないが)を探るという今作での試みは、「わたし」が経験的に語るのではなくて、「わたし」ではない三人称が家の内部に侵入していくことに面白さがある。

 ただ、そうした三人称の視点が一つの場所をめぐる物語として成り立っている側面と、三人称それぞれ(太郎や西)の内部の物語(父親の思い出だとか)が混在してしまっていて、後者のようなエピソードは一人称としての「わたし」を立体化させるとするならば効果があるはずなのに、今回はエピソードが散漫に入っている印象しか受けない。なぜかかればならなかったのかが、最後まで読んでもよく分からなかった。さらに言えば、家の歴史や太郎と西の過去の物語を、東京という場所に特定づける必要もさほど感じない。

 終盤唐突に「わたし」が登場し、そしていつもの文体に戻ったところで妙な安心を覚えた。これならばいつもの構成であって進行だろうと思えるからだ。170枚の小説にするならば、もっと他のやり方があったはずだし、あえて「わたし」を封印する必要もなかったのではないか。なんとも言えない、もやもやとした感覚は残る。

 特に、「春の庭」という作中に登場する写真へのこだわりと、特定の場所へのこだわりが感じられるわりには、小説の中で固有の土地や場所であるがゆえの魅力を十分回収できなかったのではないか。ありていに言えば、東京の世田谷なのはたまたま『春の庭』に書かれていたからだ。それ以上でも以下でもない。これは、「わたし」を封印したせいなのかどうかは分からないし、同じくある家と家族が舞台にもなっている『群像』で連載が続いた『パノララ』(単行本としては未刊)とリンクさせて考えれば、本作で柴崎がトライした意味がもう少し分かるかも知れない。ちなみに、『パノララ』でも一枚の写真が重要な意味を持つ。

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 ここまでが、初読のときの印象だった。

 再読して気づいたことは、東京、世田谷への場所へのこだわりや必然性の乏しさはさすがに強調しすぎたという気がする。これは『その街の今は』や『わたしがいなかった街で』という先行する作品のバイアスのせいもある。逆に、そのバイアスのまま読むならば『わたしがいなかった街で』のわたしが海野十三の敗戦日記をもとに東京を歩くことや、『その街の今は』のわたしが大阪の過去を感じながら街を歩くことの延長にあると考えたほうがおそらくいい。

 人々の生活が街を作り、場所に残っていくという思想が柴崎の小説、とりわけ特定の場所を舞台にして書いたものには宿っている。まず場所を固定しながら人を書くようでいて、人を書きながら場所の意味を重層的に記していく。こうした点は、先行する作品から受け継がれていて、今回たまたま世田谷が選ばれたことに関して、あまり深く突っ込むのは詮ないことのように思えた。世田谷であるという点は東京における生活者を書く分には色がつきすぎておらず、悪い場所ではない。これがたとえば山手線の内側だと話が違うし、沿線でも高円寺のような場所ではどうしても色がついてしまう。

 もう一つ、「日常性の肯定」という言葉を柴崎に対して個人的に用いる理由がはっきりしたことだ。人を書くだけなら誰だってできる。けれど、柴崎の場合は人を通して場所を書き、場所を通して人を書くという往復運動をことごとく繰り返す。 使えそうなギミックは、たとえば今回だったら様々な虫だったり、植物だったり、食べ物だったりするわけだが、直接的な筋に関係なくても人と場所を立体的にする工夫をさまざまに凝らしていく。そうした工夫が主に「わたし」による一人称視点でつづられることもあってか、柴崎の描写はカメラアイとよく言われる。今回は太郎の三人称が大部分をしめていたせいか、同じカメラでも引いたところのロングショット、長回しが多いなという気がした。現代の日本映画でこういう演出を好みそうな監督はいそうだ。まあ、映像化するとしたら本作はたぶんないだろうけれど。

 東京は様々なバックグラウンド、それも複数のそれを抱える人たちが多くいる街だ、と本作を絡めて柴崎がどこかで言っていた。「ビューパレスサエキV」の住人は一人ずつ、この場所を後にする。太郎の同僚の沼津も、そして写真「春の庭」の住人である家族も、やがては去って行く。東京という場所の流動性の高さは、常に人が去っていく場所であるということでもある。もちろん、その逆もある。その逆の例の一人が、名古屋から召還されるように東京(関東)にやってくることになった太郎の姉である「わたし」だろう。その「わたし」を、なぜ柴崎は最後まで封印していたのかまでははっきりと分からない。理由は複数あるはずだ。ただ、封印する意味は、たぶんあったのだろうと再読して思う。東京という場所は必然ではないと思っていたが、東京という場所を書く意味は確かにあった。

 柴崎のこれまでを踏まえると、いまにつながり、かつその当時の一つのターニングポイントとなったのは間違いなく『その街の今は』(最初に芥川賞の候補になった)であろう。そのあと『寝ても覚めても』や『わたしがいなかった街で』といった傑作の部類に入る長編(『わたしがいなかった街で』は中編と言ってもいいかもだが)を出してきた中、今回「春の庭」で新しいことと従来のことを両方試みたのはこの歩みの中からすれば驚くべきことではない。『寝ても覚めても』は最近文庫になったのを機に読んだが、キャラクターの多様性や複数性を主人公が引き受けながら自分自身の欲を出していく書き方は、いくらか「春の庭」の書き方につながっていると思う。

 『春の庭』を読んでいても『わたしがいなかった街で』ほど場所性や時間の必然性を強く感じることはなかったが、『春の庭』ではイラストや写真というガジェットが単なるガジェットに終わるのではなく、場所の位相を最後まで色濃く残すことにつながっているのは、『わたしがいなかった街で』におけるドキュメンタリー番組の使い方よりも効果的になっている。主人公の太郎は、柴崎の書く主人公のわりには物語における影がさほど濃くない。それは三人称で書かれているからという単純な可能性もあるが、おそらく一つのアパートと「春の庭」と題された写真をめぐる物語という筋がある程度はっきり固まっている中での物語だったから、主人公の主観はいつもより重要性を失ったのではないかと思う。

 あえてそのような書き方をしたのは一つの実験だったかもしれないが、さっき振り返った歩みを振り返ると今までの経験にプラスアルファした新しい試みとしてとらえたほうがおそらく妥当でだろう。そうでなければこの小説は書かれえなかった。構造だけでも物語だけでも、あるいは語りだけでもなく、いずれもをミックスさせて、地味かもしれないが奥行きのある物語を、芥川賞を狙ったかどうかは別として完成させた。そういった作家に宿る何かしらの意志のようなものに、15年間コンスタントに小説を書き続けてきた人の確かなプロフェッショナルを感じる。そう言っても、おそらく大げさではない。


2014/10/6

中編

初版
2014/7(文藝春秋)

第151回芥川賞受賞(2014年)

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