星のしるし


とりとめのない日常にめぐり会う「星のしるし」 

 本書は『文学界』に掲載された中編を単行本化したもので、2008年刊行なのでそろそろ文庫になってもいい頃合いだが中編一つでは文庫になりにくいのかもしれない。まだ読んでないという理由だけで図書館で借りて読んだが、いくつかの点で面白かった。詳しくは後述するが、柴崎友香の小説をいくつか読んできてようやく、という要素がいくつかあった。

 内容はアラサー事務職の主人公(果絵)の日常をつづった小説で、彼女は同僚のすすめでヒーリングを受けたり、友人と一緒に占いをしてもらいにいったりする。そうして非科学的なことを体験していく主人公を「星のしるし」というタイトルで表したのだろうと思っていたがそれは一つの要素でしかないのだろう、ということに気づいてから日常が揺らぎ、飛躍していく。日常は確実に変化するものであって、個人の観測範囲の限りでも、時間が流れば少しずつ変わらざるをえない(だから愛おしくもある)のが日常なのだろう。少なくとも、柴崎友香の小説世界にとっては。

 ヒーリングと占いを果絵は体験しにいくわけだが、その前に、具体的には小説の冒頭を過ぎたあたりで、祖父が突然亡くなるという体験をする。連絡をもらったときに奈良にいた果絵は、車に乗って大阪に向かうが大阪の病院に到着したころにはすでに亡くなっていた、ということがこの小説の中で一番最初に起きる大きな出来事である。この出来事を、引きずるというほどではないが、果絵の頭の片隅に残っていく。日々を生きる中で人の死は遠いものにある。だからこそ、人の死というものを目のあたりにしたとき、人は死ぬという経験的に当たり前の事態であっても戸惑うのだ。そのことは、簡単にぬぐいきれるものではない。

 ヒーリングと占いの話に戻ると、これらは非科学やニセ科学とも呼ばれかねない行為ではあるが一定の支持を(とりわけ占いは体系化されて歴史のあるものも多い)受けている。他方、同じ非科学でもあるが非科学であるがゆえに支持を受けるものがあって、その一つが宗教なのだということが果絵の恋人である朝陽がサッカーの試合を録画再生しているときに描写される。宗教は信仰を持つ人たちにとっては日常に染み渡っているものであり、祈りを切る行為や手をあわす行為などなど、様式化された行為を目撃することは珍しくない。これは、ある一室で「先生」と一対一の関係で、しかもそれなりの大金を払ってヒーリングを受ける様子とは明確に異なる。支持を受けていて、かつ公然と行うことのできる行為と、公然とは行えない行為。いずれも非科学ではあるし、信じる信じないは基本的には自由だ。だが、信じるという行為に依存したくなるのも、わたしたち人間でもある。

 すでにいくつか指摘してきたが、柴崎友香の小説をいくつか読んできてようやく、という最初の話に戻る。彼女の場合とりとめのない話をとりとめのないままに終わらせるタイプの小説(『きょうのできごと』『青空感傷ツアー』など)や、とりとめのない日々を描写しながら主人公が終盤にある気づきを得ていくタイプの小説(『その街の今は』『わたしがいなかった街で』)があると思っている。このタイプ以外に分類できる小説や短編もあるだろうが少なくともこの二つの分類を考えたときに、本作は後者に当たるだろうと思っている。

 ただ、中編というさほど長さがない中で大きな気づきを得るのはやや不自然でもあるだろう。その不自然さを、柴崎はある飛躍で軽やかに乗り越えている。その一つは前述した「日常は(漸進的に)変化する」ことの自覚であり、もう一つは非科学的な体験の連続が残す余韻である。どちらも果絵が主観的に実感したことであり、特に後者について合理的に説明することは難しい。けれども、科学的であろうが非科学的であろうが、そのいずれもがわたしたちの日常には存在しているのだ、という(ある種当たり前の)ことを読者として実感したり、非科学であるということだけで軽んじることもできないのだ、と感じた。

 いくつかのことを指摘したかったがうまくいったかどうかは少し自信がなく、こういう読解はこじつけではないかという気もするが、柴崎友香的なことについて振り返る一冊になったことを自分の中ではまず受け止めていたい。その上で、まだ読んでない彼女の作品を読んでいけたらと思う。


2014/10/6

中編

初版
2008/10(文藝春秋)

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