フルタイムライフ


 まずタイトルからして絶妙なのだが、読みながらうまいなあと感じたのはこれまで書いてきた柴崎友香の「わたし」がそのまま就職したお話として読むことができるからだ。というか、そのようにして 読むのが妥当だろう。大学卒業直前に就職先の決まった「わたし」(喜多川春子)が、その就職先の小さな機械制作会社に勤める一年を「五月」〜「二月」にわたって書くというお話。

 解説で山崎ナオコーラが書いているが、会社の中というのはどれだけ小さな組織であっても様々な人が行き交う場所であって、そこには様々な名前が混在する。その名前というものは人によって呼び方が違うというのが柴崎の小説では定番として書かれていて、読者を悩ませたりもする。本作の場合、春子の会社内での人間関係と会社を離れた春子の友人知人関係が就業中と就業後、あるいは平日と週末といった形で繰り返されることによって、さらに読者を惑わせる。のだけど、それこそが春子の体感しているリアルそのものなのだ、ということにも当然気づかされるし、そうした表現が嫌にならないのがまた魅力だ。

 いちおう最初の一年目を書くという流れにはなっているが、一年間の全ては書かれない。それなのに、これだけの密度のある小説ができあがる。その密度の要因の一つは、会社という生き物を書きながら、同時に会社の中に生きる人たちを書くことに余念がないからだろう。主に春子の目を通してだが、一緒に作業することの多い同僚や、貸しをを作ることに余念のない(というかめんどうくさい)課長、あるいは普段会うことのほとんどない常務との会話など、相手関係によって「わたし」がつねに「わたし」であることの困難さを自覚する。ただ、同じ社員であっても関わりの度合いの違いによって会話の中身は変化する。そのことがいい意味で表れる場合もある、というのは「十月」における電車での常務との会話によく表れているだろう。

 これがこの小説で書かれるべき「わたし」の「フルタイムライフ」であって、じゃあフルタイムを終えたあとの春子はどこに行って誰と会うのだろう。柴崎は春子の大学時代の友人知人を頻繁に登場させる。同じように就職したり、小さなお店を開いたり、あるいはお店で働いていたりと様々だが、どこかにいそうな20代の男女の日々の中に春子を自然に放り込んでいるのは今回も印象的だ。恋愛の話は時々出てくるが、今回はメインというほどでもない。春子にも正吉という気になる男の子がいるが、恋愛に発展するほどの接近はない。では何を書くかというと、彼ら彼女らの仕事に対する意識を書くのだ。それは春子も同様に。

 十ヶ月の間に春子の職場環境もゆるやかな変化を迫られる。思っていたよりも楽ではないか、というこれまでの春子の思いが、なかなかそのままではいさせてくれないという不安を誘う。不安定さに対する不安は、春子以外の社員も自覚していることであり、友人や知人が自覚していることでもあって、共闘というほどのことはないが共感を深めながら日々をやり過ごす彼らの日々が、この小説が書かれた2004年〜2005年という時期を思い出す。ITバブル崩壊後であり、小泉自民党の長期政権だったこの時期は、とりわけリーマンショック前の数年の間の好景気と比べると、誰にとっても楽な時期ではない。本作でもバリバリ働く派遣社員が登場する(その派遣社員は春子の高校時代の同級生だったりする)が、同じ場所で働きながら待遇や身分が違うことも不安定さを予感させるには十分だ。

 卒業直前だけどなんとか大阪で就職できて、会社でもプライベートでもちょっとずつ順調な日々を経験しながら、将来や先のことは雲がかかって見える。春子の経験した十ヶ月の間の変化は、春子の中にも小さな変化をもたらすには十分だった。それでも、山崎ナオコーラが解説の冒頭に書いているように、「会社を否定しない」し、おそらくその発想は春子にも、そして柴崎にもない。最後の章である「二月」では会社の引っ越しや、仲のいい女性社員だった桜井さんの退職のエピソードなどが書かれるが、それでもやるべき仕事はあるし(桜井さんがいなくなるとむしろ増えることも指摘されている)月曜日はまたやってくる。「フルタイムライフ」のライフはもちろん「生活」であるわけだが、春子の当面の「人生」でもあるのだ。

 生活として、人生として、会社に行き、働いて、退社して、いろんな人と会って、恋をして。明日から頑張ろうとか、そういう自己啓発にはならない。ここに書かれるのは単なる日々というだけだ。それでも、その日々を、楽しいことも不安なことも様々つまっている日々を書くことが柴崎の小説そのものでもあるし、書かれるべくして書かれたは大げさかもしれないが、柴崎にこそ書けた快作だったのだと上梓から10年近く経ったいまなら思える。


2015/2/22

長編

初版
2005/4(河出書房新社)
2008/11(河出文庫)

【Information
河出書房新社(公式) amazon(kindle)

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