これはペンです


 円城塔は本作で芥川賞にノミネートされるが受賞できず、次の『道化師の蝶』へと持ち越しになるわけだけど、確かに純文学なのかと言われるとはっきりそうだと言うことが難しい。最初読み始めたときに思い起こしたのは長谷敏司であったり神林長平の『言壺』のような、言語と物語の関係をテーマにしたSF小説だった。とはいえ本作はSF的な入り口をしながらもSFの出口へと向かわない、ようにも見える。(とはいえ本作が純文学だ、と断言できるわけでもない)

 「叔父は文字だ。文字通り」という短い二つのセンテンスで表題作は始まる。「これはペンです」というあえて陳腐なタイトルに選んだことや、直球過ぎる冒頭の文章にも意図がある。それは、本作は自然言語が記述されるということを追求した小説だというところで、いかに言語は記述されうるのか、そしてそれを自動生成するということはどういうことなのかを取り扱っている。

 こうしたストーリーの要請から、主人公は科学者(大学生であるという記述はあるが、職業研究者かどうかははっきりしない)として立ち現れる。主人公のわたしは、叔父を記述しようと試みるのだが、叔父とは具体的に誰であってなんであったのかは詳述されない。さほど重要ではないのかもしれない。重要なのはわたしと叔父の関係であり、そしてなによりいかにして叔父を記述するプログラムを開発するかというところにある。この時点で、why done itという要素は重要視されない・・・かのように見える。ちなみに本作には姪も登場するし、母も登場する。

 叔父の記述する言語が自動化され、姪に手紙が届くという筋書きのなかで、わたしはわたしの所在を見失ってしまうところに純文学としての魅力がある。「叔父は叔父だ。文字通り」であるからといって「わたしはわたしだ。文字通り」と言えるだろうか。姪の場合は。母の場は。そもそも、「叔父は叔父だ。文字通り」という前提をどの程度信用して良いのだろうか。また、自動的に記述される文章について、叔父はどのような思想を持っているのだろうか。

 併録されている「良い夜を待っている」におけるわたしと父の関係性は、表題作におけるわたしと叔父の関係よりはいささか理解しやすい。また、父がしだいに記憶を失っていくというあらすじも、それが何らかの病による現象だろうという推論も含め、理解しやすい。実態のはっきりしない表題作の叔父に比べると、父はずっとそばにあるかのように思える。その、「かのように」が円城塔の小説にとっては重要だ。(ちなみに、こちらの小説は恋愛小説としての要素もいくらか含まれているように見える)

 「かのように」が重要な理由は様々ある。小説としての物語を脱構築したいという点が一つ。また、そもそも筋書きなどないという前提に立ちつつあえて筋書きを「見せる」というトリッキーな要素が一つ。あるいは「これはペンです」がそうであるように、ストーリーが前に進むにつれてより根源的な探求を見せる(叔父とは何か、文章とは何かetc.)流れだ。そもそも定まった筋書きなどないし、あったとしても信頼性に疑問があるのだから、「かのように」は繰り返し現れる。どこにたどりつくのか分からない筋書きは、多数の短編群をしてようやく一つの作品として成り立つ『Self-Reference Engine』から円城塔の小説に見られることだ。

 解説の奥泉光の言葉を借りると、「かのように」の連続は読者をとにかく「かき回」すことにある。「良い夜を待っている」はいままで読んだ円城塔の小説のなかでは比較的読みやすい構成であったが、なぜなのかをはっきりと解き明かすことはできない。とはいえ、それもまた重要かというとそうとはいえない。もっと重要なところは別にあるから、円城塔が純文学の作家としても評価されるのだろうと、改めて思う。


2015/6/1

短編集
1.これはペンです 2.良い夜を待っている)

初版
2011/9(新潮社)
2014/3(新潮文庫)

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