きことわ


 芥川賞をとったあとにすぐ読んだが、正直つかみ所が難しいという感触だけが残ったのを覚えている。『流跡』のような文字通り流れていく文体の美しさはやや影を潜め、人称の操作や主体の複数性といった純文学的なテーマに(真正面からではないものの)挑んできたのが二作目の本作なのだろうか、というのがいまの感触である。相変わらずうまくは言えないが、その要因を探っていこう。

 貴子と永遠子。7歳離れていて、血のつながりのない二人が葉山の別荘で出会ったのが25年前。そして現在、という短いあらすじのあとにつづられるのは人間の人生の端々と言ったところで、面白いところで本当に端々しか語られない。貴子と永遠子が必ずしも主役であるわけではない。彼女と彼女の周辺のほうがむしろ重要だと言っていい。貴子と永遠子のパートが独立して書かれているわけではなく、貴子やその周辺の話をしているかと思えば永遠子の話になり、まったく違う誰かの話になる。誰のための物語か、などと考えるまでもなく、貴子と永遠子二人で一つの物語なのだ、と自然に思うようになる。融け合うように。

 3年前に最初に読んだときの感想を掘り起こすと、「浮遊している」と書いてあった。これはいくつかの点で現在でも同意できる。一つは貴子と永遠子はそれぞれ成人した女性でありながら、何者なのかということは(たとえばどういう仕事をしているかとか)明示されない。生活感がないわけではないのだが、貴子と永遠子を別々に書くという意図を感じない。唐突に二人の過去のやりとりが短く挿入されたりして、貴子と永遠子をセットで書くことに関しては意欲的だ。しかし、リアリティというか、手触りのようなものは希薄だ。

 永遠子には百花という小学校三年生の娘がいるし、貴子には春子という母親がいた。という、家族の物語としても本作は読むことはできる。しかしそこに、「物語」というほど大きく筋だったものは乏しくて、断片的なやりとりやエピソードが大きな脈絡もないまま挿入される。永遠子と貴子がそれぞれの人生を生きながら、久しぶりに二人で過ごす人生を生きる。その一端を、朝吹はやや大げさに切り取ろうとしているのかもしれない。いや、大げさというのは勝手な印象かもしれないが、かつての少女がそれぞれ一人の女性になったよ、ということを伝えるためだけに本作が書かれたのではないかと、推測することだってできるはずだ。

 『流跡』と比較すると、すべてが断片的なまま読むことが可能にもなっている。『流跡』同様つかみどころのなさが魅力と言ってしまえば身も蓋もないかもしれないが、『流跡』と比べると主体がはっきりと明示されているにも関わらずつかみ所がよく分からないという少しアンビバレントな構図が、今回の朝吹の一つの試みだったのかもしれないと、思う。だからどうなのか、は正直上手く言えない。何か言えることがあるとすれば、貴子と永遠子は引き裂かれるわけではない。かといって強く結びつくわけでもない。貴子と永遠子、という二人の関係性それ自体が成立しうる世界がどこかに存在するらしい、ということを朝吹が小説を通して主張している。時間と空間の流れの中で、奇跡のようなひとときが存在しうるとするならば、そこには世界を肯定する強さのようなものを感じてもおかしくない。1

 またどこかでこの小説を読み返すとき、貴子と永遠子の世界にもう少し近づけるだろうかといまは思う。近づいてみたいと思うし、近づけなくてもいいか、とも思う。信じることくらいならできる。


2014/10/19

中編

初版
2011/1(新潮社)
2013/7(新潮文庫)

第144回芥川賞受賞(2011年)

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