虐殺器官


 確か最初は去年の秋頃に読んだのだが、あまり内容をしっかり掴むことができなかった。それは何かが起きているようで何も起きていないストーリーだから、とも言えるのではないか。虐殺が世界的に起きているという描写は挟まれるものも、生々しい描写はない。あくまで「ぼく」ことシェパードの目線で語られるお話だ。確か意識的にそうやって一人称で語り、起きていることを個人的なものにしているはずなので、手法如何に難癖をつけることはしない。ただ、いわゆる社会派の小説ではあまりない書き方だから、当時は読んでいてよく分からなかったのかもしれない。

 舞台は9.11後の世界。内戦や紛争が多発し、虐殺も行われているが、虐殺の行われる背景にはある特有の要因があるという。虐殺の文法とされるコードがあり、ある男が紛争地帯に入って虐殺の文法を使用することで人間の器官にはたらきかけ、虐殺を引き起こしているのではないか・・・。その男、ジョン・ポール(いたって平凡な名前である。これも意図的だろうか)と対峙するために、米軍の兵であるクラヴィス・シェパードは接近していく。

 まず文庫版帯の伊坂幸太郎の文章が印象的で、示唆に富んでいる。曰く、「ナイーブな語り口で、未来の恐ろしい『世界の仕組み』を描くこの作品は、アクションもあれば、ユーモアもあって、つまりは小説としてとてつもなく格好良くて、夢中になりました」である。とてつもなく格好よくて夢中で、というのがどういう理由なのかは正確には分からないが、この小説の中で描かれるダイナミズムがどこか遠くにあるのではなく、シェパードという一人の人間の目線で語られる意味は大きい。

 まあとはいえ、それだけなら特別なことではないだろう。まず特徴を挙げるなら、シェパードは軍人であるが非常に繊細だ。軍人が一般市民からリクルートされ、9.11後に多くの一般市民だった人たちが軍人としてイラクやアフガンに送られた(そしてそのうちの多くが帰国後に精神疾患などで苦しんでいる)という事実的状況を表しているのかもしれない。あるいは、国家対国家の戦争の時代が終わり、誰もが兵になり、誰もが戦争の被害者になりうるという時代を映しているのだろうか。

 ただ、そうした政治/軍事小説的な読み方はあまりすべきでないのだろうということにも気づく。本作は一大スペクトルとして読むには主要な登場人物があまりにも少なすぎる。『ハーモニー』でもそうだったが、意図的に外部を排する傾向が伊藤計劃にはある。つまり、あくまで起きていることは個人的なことであり、だが個人的なことが世界の動向にも繋がる(本作でのジョン・ポールや『ハーモニー』でのミァハ)という現実があるとしたら、そこにわたしたちはどう向き合っていけばいいのか、を問おうとしている。シェパードはジョン・ポールと対峙し、トァンはミァハを最後まで追い詰めていくが、説得はすれど過干渉はしない。シェパードやトァンはあくまで理由や目的を問おうとする存在だ。

 たとえばわたしたちは9.11を引き起こしたとされるビン・ラディンに接近したり対話することなどできない。アメリカにはそれができたのかもしれないが、その気などなかったということは今年春のビン・ラディン暗殺の一件が示している。現実の政治では対話などあまりにも陳腐なものでしかないのかもしれない。だが小説ではそれができる。しかもシェパードの問いかけにジョン・ポールはさまざまな応答をし、逆にシェパードにも応答を要求する。すべてがかみ合うわけではもちろんないが、対話が続いてしまうという不思議な違和感がシェパードをさらに悩みへといざなう。

 対話による悩み、それはコミュニケーションの問題でもあるが、コミュニケーションとは結局言葉を積み重ねることによるものだ。言葉に重きを置いているのは、言葉を操るジョン・ポールを体現しているのかもしれない。第一、言葉を操ることがどうして戦争に繋がるのかは読んでいてまったく理解できなかったのだが、そこのところはひとまず置いておく。そしてやっぱり対話は大事だよねというつもりはこれっぽっちもない。そんなことは分かっているし、分かっていても現実問題として難しいことも分かっている。

 本作で感じたことは前にも書いたが、どうやって社会や世界を個人的な目線からとらえていくかということだ。すべてが個人的であるとか、ポストモダン状況がどんどん進行しているとか、個人的なことが政治的であるというのは大雑把だろうけれど、世界はある程度フラットになってしまったし、「ほんとうは、『なにが大きくてなにが小さいのかわからない』。裏を返せばそういうことだよね。世界にあるのはただの事実だけだ」(http://d.hatena.ne.jp/leemellon/20110620/)ということは見据える必要があるだろう。でもわたしたちはその必要性はわかっていても、具体的にどうすればよいのかが分かってない。9.11から10年を最近迎えたが、アメリカが迷走したこの10年が文字通り、何をすればいいのか分からない状況を表しているようにも思える。はっきりした答えなどない。

 シェパードのように、あるいは『ハーモニー』のトァンのように、対話したり悩んだり向き合っていくことで何が得られるのかは分からない。行き先は悲劇かもしれない。でも、ある日突然大きな何か、あるいは大きくはなくとも掴みきれない何かに直面してしまったとき、わたしたちはただ何もせず取り残されていくことはできないだろう。最低限、なんとかして生き残っていかねばならない。シェパードもトァンも職業倫理として正しさを保有している一方、ひとりの人間として向き合っていたのが印象的だ。

 『ハーモニー』は世界の行く末という意味でも、ひとりの人間がどう向き合っていくかという意味でも、『虐殺器官』が残した宿題を片付けようという小説だった。だからある意味で行くところまでは行ってしまった。だけれど、それも1つの選択であり1個しかない解答というわけではない。両方を読んで改めて言えるのはそれくらいだ。何か大きなことを言えるほど、自分自身の悩みがまだまだ足りないのかもしれないね。

 という感じで、どちらかというとレビューをしつつ、『ハーモニー』と比較した上でのエッセイのような文章になってしまったが、そのへんはご容赦。


2011/9/15

長編

初版
2007/6(早川書房)
2010/2(ハヤカワ文庫JA)

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