ふたりの距離の概算


 この夏休みはアニメの氷菓の過去の回を見返したり、原作を読み返したりと他にいろいろとすることはあるはずなのだが何をやっているのだろうかと思いつつ古典部ワールドにつかってきながら過ごしてきた。そのなかで自分のなかにある何かが揺り動かされることもあったし(ついでに『さよなら妖精』を再読したからかもしれないが)、自分にとってはすでに過ぎてしまったあの日々を思い返しながら、いま、ここで自分は何を為すべきなんだろうか、みたいなことを考えたりもした。まあ、おおげさなことではないのだけれど、古典部シリーズが、というよりは米澤穂信の書く青春ものの一連のシリーズが描き出している、日常の豊穣さに手をのばしていくことはどのような帰結を生むのかということについて考えていた。

 前置きが長くなったが、神山市でつむがれる日常は前作『遠回りする雛』で一年間を終えた。本作では季節が新学期に進み、古典部の4人が進級して高校2年生になったという状況から始まる。神山高校における体育会系イベントのひとつである通称星ヶ谷杯という名のマラソン大会が主な舞台となっている。そう、重要なのは大会それ自体が舞台になるという意味では文化祭を多視点で描写した『クドリャフカの順番』とスタンスは近そうだが、本作では折木奉太郎の独白と回想が多くの部分を占めている。

 もちろん回想シーンで古典部の面々は登場するが、主軸は折木、千反田える、そして仮入部してきた1年生の大日向友子の3人。福部里志と伊原摩耶花は”あくまで脇役”という印象を受けた。もちろん登場回数はそれなりにあるし、短編集の『遠回りする雛』とはそのへんが違うのだが、登場はするが『クドリャフカの順番』ほど目立つわけでもない。あくまで折木と千反田の物語に、周辺の人間が関与している、という構図なのかもしれない。

 まあそのへんの濃淡の話は置いておいても、大日向友子という、けいおん!で言うところのあずにゃんポジションのキャラを登場させているのは様々な意味での変化を感じさせる。いちばんはまためぐった春、という季節と、進級、という前進。何より、新しい視点。大日向友子は古典部の既存の4人に対してまっさらだ。新しい風が入ることによって、折木がややぎこちない感覚を語るシーンがいくつかあるのは今までの古典部シリーズとは明らかに違う何か、を実感せざるをえない。

 本作のタイトルと合わせて考えても重要なのは「距離」を考察することにあるのだろうと思う。マラソン大会で走りながら、後ろから来るであろう誰かとの距離を考えることももちろん。今と過去という、時間的な意味での距離をはかることも含むだろう。そして何より、大日向友子との距離感―それも彼女と4人ではなく、彼女と1人ずつの―をいかにはかるのか。もっと言うと、いかに正確にとらえることができるのか、が何より重要になってくる。

 言ってしまえば新しいメンバーと齟齬があったようなのだが原因が表面的に見えているものとはおそらく違っているらしい。しかしながらそれは何なのかはしっかり過去を吟味してみないと分からない。だからある意味では、謎解きというより(謎解きの要素はあるけれど)は状況の整理をすることでしかない。与えられた条件を整理した上でアテをつけて答えを提示するのが謎解きだと思うが、整理してしまえば答えはある程度出てくる。逆に考えると、どこに着目して整理するかを誤らなければ答えはでてくる。そういった形の謎解きを行っているので、解くという作業よりは謎は何か、を考える時間が非常に長い。だからこその「距離」なのか、と思ってしまう程度には、長い。

 その長い長い距離を走り終えたあとに見えてくる別の真実、はさすがに古典部シリーズだけある。小さな伏線が最後まで引っかかることによって、ある意味このシリーズのスケールをはかることもできるような気がした。日常は豊穣かも知れない。それは日常は日々小さな事件が積み重なっているからでもあるだろうし、小さいことは見逃されやすい。とりわけ『氷菓』がそうであったように、あるいは『遠回りする雛』における「連峰は晴れているか」のほうが近いかも知れないが、いつかどこかで起きていたことを、掘り返すことに精力的であるように思う。ここから遠くはないけれど、見過ごされがちな小さい出来事に手を伸ばしていくということ、その行為がはらむのが苦みなのだろう。苦みがあって初めて、この物語は完成する。

 最後は少し話がそれたが、最初から最後まで折木の思考回路がトレースされるように物語が展開されていく、という手法は面白い。行きつ戻りつではあるが、行きつ戻りつそれでも前へ進む。そうした反復によって道は眼前に開けていくし、過去は掘り起こされていくのだろう。


2012/9/24

長編

初版
2010/6(角川書店)
2012/6(角川文庫)

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