スロウハイツの神様


 辻村深月は前回の直木賞にも初めてノミネートされるなど、若手作家の中でも実力が評価されている一人だろう。処女作『冷たい校舎の時は止まる』の時から顕著なのは、構成の巧みさだろう。ストーリーを作る上でのキャラクターの造形にどの小説も力を入れているからこそ、結末への流れが一気に生み出されるのではないか。文章が特段優れているというわけではないが、1980年代生まれという辻村が処女作以来常に彼女にとって等身大の人物造形を続けていることが改めて感じられた。

 ここで処女作を読んだときのレビューから、彼女への期待をこめた文章を引用してみたい。

 エンターテインメントの面白さとは別に、高校生の実像を丁寧に書ききったことを評価したい。名門の進学校の生徒だとしても、逆に彼らだからこそ描ける像を作家は書いてきた。おそらく自分の思いと願いをダブらせて。最後の最後まで辛いシーンが続くものも、読後感は爽快。季節は冬だけど、ゾクゾクする感じは夏に味わっても悪くはなかった。単純に読書が楽しいとも思わされた作品で、作家の将来が本当に楽しみ。シナリオそのものでもっとワクワクさせるものを、彼女なら書けると期待する。

 辻村深月の書く小説はあくまでエンターテインメントだ。メフィスト賞からデビューしたことからも分かるように、社会派とか、文学的だとか、そういう堅いジャンルとは無関係な作家である。小説としてのエンタメはまずストーリーがどれだけ魅力的かと言うことが大事で、何かの二番煎じであったり、展開がどこかで破綻していてはつまらなくなる。そして当然ストーリーを形作る登場人物の存在がどれだけ魅力的であるか、がストーリーをより面白くする要素になるだろう。魅力的というのは人そのものの魅力というのもひとつにあるが、どれだけ作家がリアルな人物像を描けるか、も大事な要素だろう。それが結果として読者の共感を呼ぶことにもなるからだ。

 「シナリオそのものでもっとワクワクさせるものを」とあるのは、処女作がある種サスペンススリラーの要素を持っていたからであり、純粋なミステリー(謎解き)とはやや違った要素を持っていたからである。閉じこめたのは誰かという仕掛けを設定し、サスペンス独特の手を汗握りながらページをめくる感覚があった処女作と、本作とは少し違う。本作には大きな仕掛けはないものも(だから前半はやや冗長にも感じられるのだが)キャラクターがかなり丁寧に書かれていること、さらにキャラクター同士の群像劇とも言えるメインストーリーとは違った要素の楽しみもあり、またラストに向かっていくつかのストーリーの突破口が見えたときの高揚は今までの辻村作品にないものがあった。

 前置きが長くなったが、タイトルにあるようにスロウハイツという一つの住居に、主人公でありスロウハイツのオーナーである脚本家・赤羽環をはじめとして、作家、漫画家、画家など赤羽環の友人で、かつ若いクリエイターたちが住まうことで繰り広げられるストーリーである。環以外にチヨダ・コーキという有名作家はいるが、それ以外はまだまだ名の売れていない卵たちである。彼らがどのような思いを抱き、共同生活を送るのか。文庫の上巻で書かれるのは主にその部分であり、ストーリーの全体像が見えてくるのは下巻部分にあたる後半だ。チヨダ・コーキが過去に関わってしまったある事件のことや、そこから再生したチヨダ・コーキをみつめる視線、チヨダ・コーキの人間像など、環をはじめとするスロウハイツの住人の中心には常にチヨダ・コーキの存在が欠かせない。部屋が丁度全員の真ん中になっているのは意図的なのかもしれない。見守られ、また何かを与える存在としてのチヨダ・コーキ、その彼をとりまくストーリーという枠組みに、実はだまされていたのかもしれない。

 この小説までで5作を書いているが、辻村深月の小説には二種類あると思う。処女作や『子どもたちは夜と遊ぶ』、そして本作のように、多彩な登場人物たちが希望や苦悩を織り交ぜる群像劇タイプの小説。ストーリーもそうだが、キャラクター造形に非常に凝っていることが特徴としてあげられる。そして、『凍りのくじら』や『ぼくのメジャースプーン』のようにはっきりとした主人公が何か目的を果たすために生きていく過程を描いたタイプの小説である。

 本作のように群像劇タイプの辻村深月の小説にはこれと言ったテーマやメッセージ性があるわけではないように思う。漠然としたテーマはあるにしても、これだけを読者に伝えるために小説を書いた、という風には感じたことがない。あくまでも物語が目の前に提示されるだけ、だと思っている。第二の主人公とも言えるチヨダ・コーキの人間性は脇役にとどまる存在ではないし、かといって赤羽環の存在を無視できるわけでもない。漫画家の卵である狩野はどちらかというと平凡で、かつ親しみのあるキャラクターだし、映画監督の卵である長野のクリエイター論も読んでいて面白い。彼らの物語から何を得るか、もしくは何も得ないのか。処女作と2作目でやったことを深化させたのが本作であり、個人的には辻村深月の小説では今までで最高のものだと思っている。

 本作のポイントをシンプルに言えば、誰が、誰にとっての神様なのかということだ。最終的にはそこを目指してストーリーが続いていくものだと思う。それぞれがそれぞれの人生を賭してクリエイターになろうとあがく中、ある人物の原点が見えてきたときに、本作の本当のカタルシスが味わえる。そのあとに今まで読んできたことを振り返ったら、途中ではマイナスイメージを抱いていたものも見事に覆される。

 本作が上手いのは、それが分かるまでの過程が抜群に緻密に書かれていることだろう。葛藤による住人の退去、そして謎めいた住人の来訪、そしてチヨダ・コーキの存在。住人すべてに愛されているチヨダ・コーキをとりまく物語としても本作は書かれていて、その部分も人の好意と悪意が同時に垣間見えて非常にリアリティがある。出版不況という言葉を思い浮かべ、その上で創作と商売のバランスを考えたりなど、チヨダ・コーキに焦点を当てるだけでもかなり面白いストーリーは作れたに違いない。だからこそ、そこで終わらず、そこを飛び越えて別のカタルシスを用意したことに、辻村深月の成長を感じずにはいられない。ここまで伏線の張り方が緻密だとは思わなかった。

 後半に登場する写真家のあの人はあの人だったのか、というおまけつき。一読しただけでは人が変わりすぎて分からなかったけれど。あと、あまり好きじゃないが、文庫本の解説を書いている西尾維新の文章も読む価値あり、かな。作品論としても一読あれ、と。

 誰しも、一冊の本によって、あるいは一本の映画によって、または一曲の映画によって、または一曲の音楽によって、その人生の道筋を変えられてきたはずだ――『あの年齢』のときに『あの作品』に触れていなければ今の自分は存在していないという、そんな思い出があるはずだ。
(文庫本下巻、p480より)

 思わず長くなってしまったのは、どこから書き始めようかとあれこれしていたからかな。結果的に前半は私的辻村深月論のように、後半は本作のポイントについて触れることができた。正しい読み方は読者がスロウハイツの住人のようになって読むことだろうか。自分が彼らのようにはなれないにしても、自分は自分らしく目標に向かって生きていこう、と。単純だけどそう思った。一日一日を、そして周りの人との関わりを大切に。


2010/3/10

長編

初版発行
2007/1(講談社ノベルス 上・下)
2010/1(講談社文庫 上・下)

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