サマー/タイム/トラベラー


 初めて読んだのは2006年の12月だし、そのあともう一回くらい読んでるはずなんだけどレビューを書かず、今回の再読でようやく書くことに。書きづらかったのはおそらく切り口がありすぎることだと思うが、単純に夏に読んでよかった、と素直に思える。自分が高校生のころに初めて読んだときどういう思いをしていたかが気になるんだけど(主人公たちは高校生だし、地方の人間であるという意味で)今は今でまた別の意味で読んでよかったと思えた。それはちょっと書評とは外れた方向にいくので書かないが。切り口が多いと前述したようにこの書評で書いたことが本作の全てではないと思うし、気になる方はネット上に転がっている書評と比較してみるとそういう視点もあったのか、ということに気づけて面白いと思われます。現に俺がそうでした。

 さて、本作は辺里(信大がどうのこうのという話が出てくるのでおそらく長野県の架空の土地)という町でインテリ高校生たちが繰り広げるタイムトラベル開発(プロジェクトと称される)と、マラソン大会がきっかけでタイムトラベルの才能を本当に得てしまう少女、悠有の物語である。青春、SF、タイムトラベル(以下TT)その他いくつもの要素を含有していて単純に面白いのと、またそれらが相互作用して醸し出す「切なさ」が絶妙。若干後半、切なさを描く部分が少ない気もしないではないんだけど、まあ悪くはないです。本作はミステリというわけではないので(要素としてはあるけれど)結構展開速くないかと思う場面はあるのだがそれもあまり気にせず、壮大な青春回想としてのストーリーが醸し出す余韻を楽しむのが吉なのではないか、と思う。はっきりしたミステリやSFではないが、小説ではあるのでね。ジャンルを気にするのはもったいないとも思える。

 いくつもの要素が詰め込まれた小説と書いたが、たとえば夏の話であること。ひと夏の想い出、と言ってもいい。回想という形態をとっているので「ひと夏の想い出」という要素それ自体がノスタルジーに他ならないし、学園ものであることはすなわち淡さ、瑞々しさ、もしくは未熟さや卑屈さ、後悔と言ったものも内包する。だが、登場する高校生たちは実に高校生らしくない。進学校の生徒だからというのは分かるが、饗子の論文やアエリズムという理論は意味不明だし、プロジェクトのために取り出す本は普通の高校生の読書歴の比ではないだろう。ただ、このギャップがあってこその余韻がある。意外だと思えるシーンがある。あくまでも、高校生は腐っても高校生なのだと思わざるを得ない、というよりむしろ当たり前のことに気づかせてくれる、そういう変な安心感がある。あとがきで作家が「もっともシンプルな青春小説」という風に書いているのは、アンバランスな要素を混入させつつも芯がはっきりしている、ということの表れなのだろう。それをヒロインである悠有がおそらく一番まっすぐに体現している。本作の面々の中だからこそ、一人の高校生としてのバランス感覚を持った悠有という存在は際立つのである。自分の世界に入り込んでしまう涼や饗子と比較するとよく分かる。

 また作家は同時に「これ以上ないくらいSFっぽいSF」とも述べている。いわゆるハードSFではないのは今までの文章で理解していただけると思うが、ハードでないにしてもSFという概念に関しては無駄に(?)緻密であるのが本作でもある。饗子の立ち上げたプロジェクトが緻密さと、同時にいくばくかの無駄さも演出していて(それが楽しいからやっているという感じでもある)作家自身の遊び心の表れとも言える。1巻263ページのTT作品分類はなかなか示唆的である。TTとは何を表しているのか、またTTに駆り立てる動機は何なのか。過去は変えられるのか、タイムパラドックスやパラレルワールドとの関係は?などあくまでフィクションであるにもかかわらず、同じくフィクションである本作の高校生たちは真剣に(遊び心も多分にあるが)追求しようとするのである。そして、どこがよりSFっぽいSFかと言えばこれも悠有の存在だと考える。悠有がいないと本作がSFたり得ないと思うからだ。饗子も近いことをやってはいるが、饗子の場合は利用可能な技術を駆使する範囲であるのでSFっぽいリアルであると考えられる。

 ここまででSFという軸と青春という軸がともに悠有で交わっているのではないか、ということを書いてきた。ただここまではあくまでも設定の範囲であり、設定の面白さは垣間見えるがストーリーの核を貫いているわけではない。そして、その核とは”未来への喪失”であると思っている。本作がタイムトラベルという要素を含有している以上、時間転移による喪失はテーマとしておそらく避けられないと思っていたし、青春小説における喪失も重要な要素となりうるので特に想定外とは言えない。それは多くの読者が感じていることではないかと思う。

(ここからややネタバレ含む。2巻の展開にも言及アリ。)
 前半から何人かの登場人物たちの共通認識としてあるものに、辺里からの脱出、というものがある。饗子はお山の上に閉じこめられ、卓人は既に大学は東京だと決めている。ただ、悠有の動機は明らかにされない。それでも彼女はじょじょに自分の意思で”跳ぼう”とする。卓人の解釈をとれば、卓人や饗子のように現実逃避からの行為ではなく、未来を信じての行為(2巻のp290,291あたり)であるということだ。だが、個人としては何故悠有が卓人といる未来ではなく、自分ひとりだけが遠くに行ってしまうことを望んだのか、それが理解できなかった。悠有が卓人に好意を向けているらしい描写はいくつもあるからこそそう思う。それも後半は若干しぼんでいく、というのは理解できるんだけれど(逃避の理由の差異も理由に含まれるだろう)

 未来はけっして真っ暗なものでないと、そう信じて一人のヒロインが駆けていく様はなかなか絵になる。そしてそれは同時に、卓人にとってはあまりにも綺麗な未来への喪失ということになる。これが意味するものはいくつもあると思うが、最初に書いたように唯一バランス感覚を持った存在である悠有が一瞬にしてアンバランス、いやアンタッチャブルな存在になったのが本作のラストシーンだ。これが示唆するもの、結局はバランス感覚を持っているものが優越していく。バランス感覚を欠いてしまっていてはどこかで致命的ミスをおかしかねない、ということは放火事件の顛末に表れている。まあこれらの仮説は絶対的ではないにせよ、だけれど。

 ストーリーが進展していくにつれ、本作が青春小説独特の甘酸っぱさを帯びてきて、最初読み始めたときに感じた違和感というのはじょじょに薄れていく。それに反比例するように、悠有はどんどん遠くに行ってしまう。それはまるで、叶うことのない片想いのようでもある。新海誠が映画「秒速5センチメートル」で描こうとしたものに近いかも知れない。男は過去を懐かしみ、女はひたすらに前を向く。それをただのセンチメンタリズムであると片付けるのはたやすいかもしれない。ただ、俺が男だからかもしれないが誰かを大事に思う気持ちはたやすく片付けられるものではないと思うし、女性のしたたかさも同時に尊いものであり、優劣をつけるべきではないと思っている。「秒速」でも同じような感想を持ったし、時間を隔てた人を思う気持ちは2006年の映画「時をかける少女」が描こうとしたものでもある(原作と原田知世の実写映画は見てないので比較できないが)

 「秒速」との大きな違いは本作にはエピローグがあること。というより、回想という形式をとっているのでエピローグが現在にあたるわけだが。それを読み終えたら実にすがすがしい気持ちで本作を終えられる。「秒速」があえて残した違和感は本作にはない(映画ということで尺に問題があったのかもしれないが)つまり、「それでも地球は回ってる」ということだし、同時にロマンチシズムも内包している。これは確かに、「もっともシンプルな青春小説」という価値のある小説だ、と実感した。読み始めは全然そういう気がしなかったので、不思議なものである。

 一つの小説として、色んな要素をつめこんだあげく綺麗にまとまっていないところが多かったり(饗子は途中から空気になるし・・・)するのだが、卓人と悠有の関係性は綺麗にまとまっているのでアリかなと思えてしまう。饗子は彼女を書くだけで一冊の小説になりそうだし、そもそも文庫本2冊で書ききれるキャラではないのである。尺が長くなると今度は長くなり過ぎる気もするし、悠有が”跳んでいく”ことの瞬間性を描ききれなくなるので、夏はあっという間に終わってしまうという意味でも2冊にしたのは正解だろう。

 以上、長くなったがまとめると本作はSFと青春という軸、卓人と悠有という軸、そしてふたりを取り巻く環境が変化する中で加速していくひと夏の物語、というところ。SFとしても青春小説としても真新しいものはほとんどないのだがバランス感覚を大事にしていて、その均衡が破れるときのあっという間の瞬間がものすごく綺麗で印象的、な小説です。まだもう少しだけ今年も季節的な夏は続くので、というか気温的にはまだ夏はしばらく続きそうなので未読の方はぜひぜひ。甘酸っぱいのが苦手な方はややオススメしませんが、インテリな高校生たちが抱える悩みは普遍的なものであり、共感できるところも多いのではないかな。


2010/8/24

長編

初版
2005/6(ハヤカワ文庫JA 1巻)
2005/7(ハヤカワ文庫JA 2巻

(2006年)第37回星雲賞受賞日本長編部門受賞

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