主題歌


 たまたま池袋のリブロのサイン本コーナーにこの本の単行本が置いてあったので手にとった一冊。もう文庫もでてるけど、柴崎さんのサイン見てみたい!と思い購入した。3作収められていて、表題作「主題歌」は芥川賞にノミネートされた掌編。他2作は「六十の半分」と「ブルー、イエロー、オレンジ、オレンジ、レッド」という比較的短めのものがおさめられている。「ブルー、イエロー、オレンジ、オレンジ、レッド」が柴崎の文芸での実質的デビュー作、という位置づけらしい。

 「主題歌」については柴崎には珍しく三人称を採用しているのと、にもかかわらずいつもの柴崎の小説として読めるという面白さがある。日常のなかの手の届く範囲の人間関係と幸福感を享受する女性たち、という形ももうお手の物、という気配さえ感じる。その上で本作で試みているのは、女性が女性を見るまなざしで、端的に言えば女性が女性に対する「かわいい」という感覚を小説にちりばめれている、といったところが一番の読みどころだろう。

 帯には「『女子好き』な女性たちのみずみずしい日常の物語」とある。これは2008年刊行で初版のときの帯なのだが、すでにこのころに「女子」という言葉が消費の対象として認識されていることにやや驚いた。言うまでもなく「女子力」ブーム然り、○○女子や○○ガールといった言葉が巷にあふれかえっていて、「女子」が欲望や消費の対象になっているという意味でそれを問題視する向きもある。AKB48グループに代表されるアイドルはその典型だろう。また、ジェンダー的な非対称性を強調しているという意味では、ある種のバックラッシュが見られる。まあこれだけで一つの文章が書けるくらいなので詳しくは述べないが、他方で女性が「女子」を欲望することが十分に語られているとは思わないし、既存の語りのなかでもブラインドになっている印象を受ける。

 前置きがやや長くなったが、女性が女性としてカジュアルに楽しむこと、女性が女子という存在をカジュアルに欲望することが、柴崎の書く「日常」の物語のなかで中心的に書かれているということにはなんらかの意味があると思う。「日常」をあえてかっこにくくったのは、当事者である彼女たちにとっての日常はその周辺、特に男性にとっては異質の次元にうつるものであって、とても日常的な空間ではない。いわゆる「女子会」のようなシーン(俗な言葉で言うと宅飲み)が後半に書かれているが、まだこのころには「女子」という言葉はあれど「女子会」という言葉はなかったように思う。かといって先駆的というほどのことではきっとなくて、カジュアルに女性が女性でいられるということは、ある意味男女雇用機会均等法が浸透し、女性であっても仕事があり稼ぎがあり、といったなかではごくごく自然な光景なのかもしれないと感じた。

 アニメの世界では日常系と呼ばれるジャンルがあって、その中では主に女の子たちの学校生活や街でのコミュニケーションを描写していくスタイルがとられている。四コママンガが原作であるものが多く、大きな筋書きがないわけではないがどちらかというと背後にあり、その上で女の子たちのコミュニケーションを前面に出すことが多い。ここで恋愛は多くの場合で排除され、友だち同士や、せいぜい先輩後輩同士の関係を書き、異性としての男の子も排除されることが多い。

 柴崎友香の小説に置き換えると、本書の「六十の半分」には親子の関係が描写されているが、「主題歌」では女友だちや女性の同僚とのコミュニケーションが前面にある。会社生活の描写もあるので異性は排除されないが、影は薄い。他の柴崎の小説はもっと男性と女性の関係性がフラットに書かれている印象を受けるので(恋愛関係は含みつつなので文体のせいかもしれないが)「主題歌」を読みながら感じたことは、いつのまにか日常系アニメを見るように読んでいた、ということだった。もちろん、アニメ的なセリフの脚色まではないものの、カジュアルに女子同士のコミュニケーションを楽しみ、そして消費しているさまはアニメ「けいおん!」における部室のイメージと重なる。けいおん!の女の子たちの未来がここにある、は言い過ぎだと思うけど、「主題歌」もある世代(柴崎ともほど近い世代)の同世代感を出しているのは着目すべきだろう。

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 残りの2本について。「六十の半分」と「ブルー、イエロー、オレンジ、オレンジ、レッド」はどちらも25ページ前後しかない短編だが、柴崎らしさは垣間見える。「六十の半分」は短いながら電車で出会ったおばあちゃんの話を聞くという形で戦争体験のエピソードが挿入されていて、『わたしがいなかった街で』を発表したいま振り返ると、戦争という道具を使って過去と現在をつなげるということはこのときから意識していたのかもしれないとも(こじつけかもしれないが)見てとれる。表題にも六十という数字が入っているが、短い話のなかの短い会話のなかで時間の流れを表現するのは容易ではない。その意味ではコンパクトではあるが秀作である、と思いながら読んだ。

 「ブルー、イエロー、オレンジ、オレンジ、レッド」はWikipediaの記述によれば改題前の「「レッド、イエロー、オレンジ、オレンジ、ブルー」という作品が1999年に文芸誌に載り、柴崎が作家としてのデビューを果たしたとされている。一人称でつづられるカメラアイ、具体的な(大阪の)地名を記述しながら歩き、人と出会う主人公。色がタイトルになっているように、カメラアイで進む記述は具体的な色をもって読者の前に表れる。過剰なものではなくリアルな、どこかにありそうなものとして。

 「主題歌」に関しては内容のレビューというよりは「日常」という切り口からの解題、みたいになってが、そもそも「日常」と「非日常」の差異についてきちっと詰めないとこの方法は不十分になる。だからすでに日常とジャンルされるアニメを持ち出して文章を書いてみたが、この小説そのもののなかから「日常」を論じることをどこかの機会でやってもいいなと思った。そのためには再読が必要だろうけども、「日常」とはなにかを考えることは「非日常」とはなにかを考えることであるし、どちらも主観的で環境的なものである以上、実は本質的に普遍的なものではないということも留意する必要がある。にもかかわらず日常系アニメの光景を日常だと感じる(あるいは、感じてしまう)ことや、「主題歌」という小説が日常という言葉でくくられることそのものはいったいなぜなのか、ということも考えることができるだろう。


2013/2/28

中・短編集
(1.主題歌2.六十の半分3.ブルー、イエロー、オレンジ、オレンジ、レッド)

初版
2008/3(講談社)
2011/3(講談社文庫)

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