空海の風景


 久し振りに司馬遼太郎の小説を通読したが、時々独特の洗練された文章に触れたいと思うからである。歴史小説を普段から読みふけるわけではないし、特に司馬の場合はどれも長いので少しよいしょがいる。本作もそうで、古本屋で手に入れてから読み始めるまではいくばくかの時間差が必要だったようだ。ただ、本作は司馬の著作の中でも評価は高く、読み進めること自体は単純に楽しみだった。

 空海の風景、である。この言葉が意味するものは本作に書かれてあることの大部分であると言っていいだろう。讃岐の国で生まれ、都に行き、留学し、同世代の最澄や橘逸勢との交流や切磋琢磨があり、時の権力者にも認められ、自分の信じる密教を高野山の地で実現していく。司馬はその過程を小説的にドラマ仕立てをして書こうとしない。非常に、淡々と、かつ精緻な筆致が続いていく。

 単純に言えば、小説を読んでいるのだけど、小説なのだろうか、という不思議な疑問がずっとつきまとう。ネットで感想をいくつか見たところこれは司馬のエッセイではないか、と感じた人もいたようで、なるほどそうかと感じた。余談ながら、で話の横筋を説明するいつもの筆致ではなく、文章の中で筆者自身がたびたび登場する。新聞記者をして寺院を回ったころの話であるとか、実際に現在の長安を訪れた話であるとか、創作の中に紛れもないリアルが運び込まれているのである。それも、文章の流れを崩さない非常に自然な形で。いつもの「余談ながら」のほうがよほど流れを乱している(余談があることで独特の司馬節を読めるのは面白いが)と言える。

 つまり本作で司馬が試みたのは、前述したようにタイトルにあるとおり、「空海が何を見てきたのか」をあぶりだすことだ。そのために実際に歩き、仏教とりわけ密教や空海が登場する以前隆盛だった南都六宗についての記述も欠かさない。密教という複雑なものについて、また華厳がどのような仏教を目指したのであるかについての知識がなくても、空海がどのように解釈し、自分自身のものとして実践していこうかということは理解できる。教科書のように詳述するのではなく、空海の目線を通して書いているあたりはもちろんバイアスもあるのだろうけれど、文章の流れを乱さないという点では非常に読みやすいのでむしろ読者としてはありがたい。詳しく書かれても理解できる気がしないし、ね。

 あとは、本書を読むという行為が壮大な旅のようでもある。空海の歩みを追体験する、つまり彼の思考の変遷や物理的に歩いた道のりをたどり、さらに人間関係を豊かに表現することによって、まさにそこに立っているかのように思わせられる。小説であるなら、たとえ歴史小説であっても物語を読んでいるという実感が強いのだが、本作は小説という体裁をとりながらノンフィクションとフィクションの境界が非常に曖昧であるので、文庫版で上下巻に渡って長い長い旅をしているように感じるのである。

 こうして書いてきたように、ただ単なる読書体験を求めるのでもなく、歴史を知るということだけにとどまらないのはなぜか。あとがきによると、司馬自身が本書を書き終えてもなお空海が遠い存在であり、「錯覚にすぎないかもしれない」とさえ語っている。ただ、たとえ錯覚であり幻であっても、空海という存在を掴むために彼の見た風景を描く、という行為はまぎれもなく空海の実態を表そうという試みであるのだから、そうしてたどりついた結果や実際に書いた文章の正しさなどは問題ではないのかもしれない。空海という、雲の上の存在について時間と労力をかけて迫った、という行為が非常に価値のあるものなのだろう、ということがあとがきを読んでいて感じたことである。

 哲学、という西洋の言葉はふさわしくないのかもしれない。それでも、この言葉が一番本作に適しているように思える。触れようとする、考えようとする、一つ一つ疑問や思考をほどいていく。それはまさに空海が行ったことでもあり、司馬も試みたことであると言えるだろう。その結果が、純粋な小説でもなくノンフィクションでもない、長い長い一つの文章作品としての本作なのだろう。読むという行為が、貴重な体験でした。


2011/4/25

長編

初版
1975/10(中央公論新社)
1975/11(中央公論新社)
1978/1(中公文庫)
1978/2(中公文庫)
1994/3(中公文庫 改版上下)
2005/6(中央公論新社 新装改版版上下)

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