スワンソング


 これが大崎ブルーなんだな、と思った。読み終えたときのまっすぐな感想である。本作は主人公が2人の女性の間で苦しみ、葛藤し、決断していくというありふれた悲しい三角関係というストーリーで、ストーリー自体に魅力があった『パイロットフィッシュ』や『アジアンタムブルー』とは異なる長編であると思う。後半の展開なんてそれこそありふれているじゃないか、と思わざるをえない。だけど、だけど震えてしまうのが不思議で、後半は静かな震えを抱えたままページをめくっていた。

 小さな出版社に勤める篠原は、3年間付き合った同僚の由香と別れることにした。それと引き替えに、21歳でアルバイトの由布子と付き合うことに。ほどなくして由香にもばれてしまい、由香と由布子の関係は日に追って悪化していく。それと同時進行して由布子の精神が病んでいき、篠原と由香との関係も崩れていく。言いようもない孤独感、忙しさを増す仕事の中で由布子の側に添いつづける篠原だが・・・。

 丁度朝方に読んでいたので途中から朝日が差してきたのがちょっとした救いとなったのだが、いつものように夜にこの本を読みふけっていたら本の世界に入りすぎたかも知れない、と思う。『タペストリーホワイト』でも思ったが、一人称を使いながら細かく細かく感情の機微を書くのが上手い。主人公の篠原が、精神の病みが深くなっていく由布子に接するシーンであるとか、由香の度重なるシグナルに気づきつつも望んだようには返せないジレンマを抱えるシーンだとか、おそらくここで描かれる恋愛は青春小説で描かれる恋愛とは真逆であるということなのだろう。その度合いを大崎善生の文章は、彼の描く主人公はいつものように淡々としているけれど、本作では一文一文に叫びがこめられているようにも感じた。いつもの主人公像というのはどこか達観しているか、逆に悲観していることが多いのだが本作の主人公は最初から最後までジレンマを抱え続け、悩みもがきながらもそれに向き合おうとする。こういった主人公像がずっと大崎の小説を読んでいる自分としては意外であり、興味深く読み進めた。

 大崎善生はいつものように、時代背景やその当時の音楽をスパイスとして加える。主人公の嗜好を示すために挿入されることが多いのだが、今回ほど効果的に働くことも今までなかったような気がする。夜中無音のF1を見つめるシーン(作中の時代はセナ、プロスト、マンセルというF1黄金時代)は由布子と過ごす幸福でもあり空虚でもある空気感を作り出すし、発信者の分からない電話は恐さと悲しさが同居する。大崎の小説にしては珍しくベッドシーンが少ないのも、虚しさに拍車をかけているかもしれない。体温を確かめ合うという行為すら現実のものではない関係、けれども心の奥では目の前の相手を切実に求めているというのは端から見れば矛盾以外の何ものでもない。だが由布子と篠原の関係は矛盾していることがむしろ正常のような、妙な落ち着きも垣間見える。それを生かすF1や音楽と言ったスパイスの効き方が本作は本当に上手い。上手くて切なさの度合いも高まるわけだが。

 2人の女性はシグナルを送り続けるし、篠原は戸惑いつづける。幸せか不幸せか、おそらくそういう問題ではなくてどうしようもないほど、他に何もなすすべがないかのように。不器用と言ってしまうのは簡単かもしれないし由香と由布子の2人の女性像は誇張しているところもあるような気もしないではないが、そう言い切ることで自分の中に残るのはやはり空しさなんじゃないかな、と思う。3人はそれぞれ向かう先がどこにもなくて、でもどこかに留まってもいられなくて、じゃあどうするんだ?と自問しながら毎日を繰り返しているような気がした。ただ、言いようもない孤独感と虚しさをつなぎ止めるのは人にしかできない。
 
 彼らの行動を見ていて思うのは、ただの孤独ではなく、なんだろう、世界にひとりぼっち(あるいはふたりぼっち)なんじゃないかと思ってしまう。ストーリーの前半は会社の同僚との描写もよく出てくるが、後半は彼らだけの世界に入っていくような不思議な感じを味わえる。ある程度予期できる結末を静かに見守ってくださいと言わんばかりに。引き込まれるのである。外の世界との接触が多分にあった『アジアンタムブルー』では味わえなかった感覚だし、本作の一番の醍醐味であると思う。確固としたストーリーがあるわけではない、描かれるのは人間の弱さと優しさが露呈し続けて、その先に何があるかということだけなんじゃないか、と。

 最後に、本作の空気感を上手く表現している文章を引用して終わりにしたい。何か同じことを何回も書き連ねたような気もするが、本作は読むに値する点は数で言えば少ないと思っている。ただ、その少なさを克服するものはきっとどこかにある。そう思いながら後半は引き込まれていた。それだけと言えば、それだけである。でもそれが言いようもないカタルシスだったのも確かである。

 肉体関係のない恋人関係というのは、音のないF1に似ていなくもなかった。体を貫くようなあのエンジンの爆音もなく、胸を切り裂く超音波のような叫びもない。ただ同じ景色の場所をぐるぐると回り続けているような関係―――。

 同じコースをぐるぐると回り続けるが、2時間近くかけて何十周も走ったあとには必ずゴールが訪れるのがF1だ。完走するだけでもレーサーにとっては幸福な瞬間であるはずだ、なぜならリタイアの可能性もあるからだ。翻って、篠原、由香、由布子の3人は果たして完走できたのか。ぜひ、見届けて欲しい。


2010/8/20

長編

初版
2007/9(角川書店)
2010/6(角川文庫)

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