タペストリーホワイト


 大崎善生再読企画第1弾。最初読んだときにわりと好きな部類に入るかなと思っていたがなぜかレビューを書いていなかったので再読して書くことに。ホワイトというだけあって冬っぽくていまの季節に合うかな、とか考えてたが季節感は全然関係なかった。学生運動が傾き始め、やがてゆるやかに鎮火していく70年代を描いているが、おそらく大崎自身の人生にもいくつかかぶせてきたのだろう。北海道から東京へ上京するということ。汚い川沿いで、不穏な空気の漂うキャンパスで、妖しい夜の酒場で。ある時代の学生が経験したであろうことと、そのとき流れていたかもしれない音楽を、小説の基盤としている。

 会話のシーンもあるがほとんどが独白の回想でずっと続いていく。短編では同じような試みが何度かあった気がするが、これのみで長編ひとつ(字数的には200枚くらいだろうか)を書き上げ、一気に読ませていくという方法をとっている。より厳密には4つの章立てに分かれているので連作という形になるかもしれないが、札幌での姉の回想(「will you love me tomorrow?」)から始まり、わたし自身の救いにつながる最終章「Tapestry」までの流れは一続きだ。キャロル・キングの音楽が通底していることからも、音楽のアルバムを聴くように本を読むような感覚にさせられた。いや、キャロル・キングは俺はほとんど聴いたことがないのだけども。

 章ごとにキーパーソンは変化していくが、最初から最後まで一人の男の存在が幅を利かせ、主人公を突き動かす。それは、かつて札幌にいたころの姉が手紙のやりとりをしていた、遠藤修一という男の存在だ。遠藤修一とは何者なのか。なぜ姉は、遠藤修一に惚れ込み、彼を追うようにして東京へ出て行ったのか・・・この大きな謎を突き止めていくために、そして姉の言いつけを守るように、妹である主人公高島洋子も東京に向かう。

 これは闘争の話である。それも、全国的な話題を席巻し、ある種青春の一幕にもなっていた60年代の闘争ではなく、60年代の不可能性から逃れられないまま暗い時代に突入した70年代の闘争の話である。だから本作は非常に歴史的でもあるし、等身大だ。闘う相手をなくしてしまった70年代の彼らは互いを攻撃しはじめる。内ゲバという言葉は、その生々しさを象徴する。東京に身を投げた高島洋子も、そしてかつての姉も、暗い時代の空気から逃れることはできない。

 たとえば小熊英二の『1968』を読んだこともないし、とりわけ70年代の闘争について多くを知っているわけでもない。その70年代がさらに名残としてのこったどうしようもなかったのであろう80年代の闘争については通っている早稲田大学でいくつか資料を見たり、当時の時代を知る教授たちから話を聞くことはあった。70年代に関してもはや同時代の人は遠く、本作に書かれてあることをのみこむしかない。

 高島洋子が抱えていく問いでもあり、本作で一番大きな問いになっているのは「自由は何をもたらしたのか。そして何をもたらさなかったのか」という問いだろう。70年代の暗い空気は、60年代の自由を謳歌してしまったがために生まれたものでもある。こう考えたときに、姉である希枝子の教えを聞いていた洋子にとって、姉とは目指す存在でもあるが同時に超えていく存在、いわば古い時代の人間ともとらえられる。姉もまた、洋子にさまざまなことを伝えていくが、洋子がその意味に気づき、懐疑を覚えはじめたとき、はじめて希枝子と同じ場所に立つことができているような気がした。
 
 だからこそ、文庫版の216ページにある「私がどれだけ苦しんだかわかっている?」という言葉に洋子の疑義と決意が集約されているのではないだろうかと思う。過ぎたるものへの疑義と、同時に「いま、ここ」という意味と、その両方に目を向けたときにはじめて、自由のもたらさなかったものに気づく。重要なのは自由を洋子自身も全否定しているわけではない。ただあまりにも、自由がもたらしてしまった負の部分を彼女は背負いすぎた。だから別のものを同時に模索しなければならなかった。洋子は多分に、70年代の人間ということなのどあろう。60年代を超えていくための。

 音楽についてはさっぱりなのでほとんど触れてこなかったしさっぱりなまま触れるべきではないだろうと思ったが、せっかくなのでこの文章を書き上げたあとにググったりなんなりして聞いてみようとは思う。70年代の暗い時代に、音楽はある程度の救いを与えられたのだろう。もしかしたらそれは日本に限らないかもしれない。60年代を超え、新しい80年代を迎えるための雌伏の時代に、いま2010年代という地平から思いをめぐらせる。 


2013/1/26

長編

初版
2006/10(文藝春秋) 
2009/10(文春文庫)

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