一九八四年


 村上春樹の1Q84がブームになった今年、本作がハヤカワ文庫から新訳で出版された。よく似たタイトルはこちらが本家で、春樹がインスパイアされたとかされてないとか。春樹には特に興味がなくて、特にあれこれ詮索するつもりもないけれど。本作は良質な未来小説。社会主義のなれの果ては、情報社会の高度化と結びついて恐ろしい管理社会を生み出すか。


 かつての東独以上を思わせる管理社会という設定、人の思考まで監視される社会の中で生きていく人々、完全なピラミッド構造の階級社会。これらがすべて起こりえたわけではないが、部分的にはそれこそ東独や旧ソ連に通じるものはあるし、現在だって管理されない自由なまっさらな社会ではない。知らず間に送られてくるダイレクトメールや増えてゆく監視カメラ。ネットショッピングでは買い物から嗜好がデータ化される現実だって、便利かもしれないが一抹の恐さも残る。人が社会とつながりを持つ限り、一人きりで生きられるわけではないかぎり、どこかで誰かが見ていてもおかしくはないのだろう。そのなれのはてが、ここにあるか。

 ビッグ・ブラザーが牛耳る社会。序盤で出てくるキャッチフレーズが印象的だ。

戦争は平和なり
自由は隷従なり
無知は力なり


 もちろん序盤では意味不明であるし、なかなかこの言葉の真意にはたどりつけないようになっている。それなりに長い本ではあるが前半部分を使って、真理省で過去の文章の改ざんの仕事をするスミスを通じて世界の概要が語られていく。大陸名までもが今と呼び名が違うため、ある程度大枠が説明されるまでは淡々と読み進めるだけなのだが、随所に確固たる階級の現実や、思考警察という存在の恐ろしさを伝えるエピソードがつづられてゆく。本格的にストーリーが展開されるわけではなくてもひきつけられるものがある。

 そんなスミスは友人や同僚の状況を見守っていくなどしながら、体制への不満をつのらせる。完全な管理社会で生きていく焦りは日記でもつづられていく。社会とは何か、そもそも自分とは何か。管理社会の中では果たして自分という個性は存在するのか、必要とされるのか。悶々とした日々を過ごす中で一人の女と出会う。そこからが本当の意味でのストーリーの始まりである。長すぎる前座は後半のインパクトのためには必要で、後半に展開が進み始めてからはページをめくる手も自然と早くなった。

 自分と同じ反体制の女ジュリアと出会ってからは、いかに体制の隙をかいくぐるかに焦点が置かれていくが、そこでの描写の緻密さも改めて感じさせられる。それに加えて行動をジュリアと出会うまでは起こせなかったスミスにも影響を及ぼしていく。なぜ自分がこのような状況に陥っていて、苦労しなければならないのか。ビッグ・ブラザーや党は何のための存在なのか、という根源的な問いまでつきすすんでいくわけだがそこで再び前述した三つの標語が意味を持つのだ。これは、信じたくはないけれど全体主義と情報統制が幸福をもたらすというロジックだ。ただ思うのは、いったい誰のための幸福なのか。

 国家という存在(アクター)は政治的な意味でも経済的な意味でも重要である。軍隊は国民を守るというよりも抽象的な存在である国家を守るし、国家と一国民の命を天秤にかけることになった場合前者を選択する流れは今でもあると思う。第二次大戦以前から冷戦終結までは国家の対立要素に本作にあるようにイデオロギーが幅を利かせる。民族や、宗教よりもおそらく当時は絶対的な要素だったのだろう。イデオロギーが国家を生かし、国家の未来を保証する一方で、国家の中で生きる人々を無視する。そのひとつの形が本作ではないか。

 いや、無視はしていない。徹底的に干渉し、幸福観をおしつけることにより極端な形でのむしろ保証をしている。1984年という設定ではこれが非常にうまくいってるし、戦争もことがうまく運んでいるが、おそらくいつか限界が来るだろう。本作の終盤のような想像を絶する展開は体制がうまくていっているときの典型的な風景なのだろう。そのときにそれらがどうやって崩れていくか、も読んでみたい気持ちがあるが、ひとまず読み終わって非常に疲れたということだけ記しておく。

 ふれてこなかったけど、ニュースピークという新言語が登場する。これについての細則が付録として巻末についている。言葉を操れば思考も操りやすい、それだけどのような体制であろうと言葉が持つ意味を重要視しているのだろう。政治的に本作をどう解釈するかもハヤカワ文庫の解説で長々と書かれている。これを終わったことと思うかどうか、読者次第だろう。



2009/10/11

長編

初版発行
1950(文藝春秋新社)
1972/2(ハヤカワepi文庫) ※絶版
[新訳版]2009/7(ハヤカワ文庫)

あと、こんなのがあったりする

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