百瀬、こっちを向いて


 中田永一の処女作集である。中田永一という聞き慣れない作家名に加え、表題作でもある処女作が恋愛もののアンソロジーに組み込まれたことにより実は某有名作家の別の名ではないのか、という噂がやまない作家である。噂される作家はブックレビューでも取り上げている作家であるが、個人的には若干毛色というか、人の描き方が違うんじゃないかと感じている。まあ、正体が誰であるにせよ、本作が良作であることに変わりはないから気にしないことにしておく。

 前述した『I LOVE YOU』という中田永一デビューのアンソロジーには伊坂幸太郎、本田孝好といったミステリ畑と石田衣良、中村航、市川拓司といった恋愛小説畑の作家をコラボさせた面白いアンソロジーだったわけで、この組み合わせから中田永一がミステリ畑の某作家ではないのか、と疑われたようである。そこに収録された「百瀬、こっちを向いて」のキャラクター像が非常にコミカルであり、かつ情緒的だ。百瀬というヒロインがそれを象徴しているが、主人公の先輩でもある宮崎や友人の田辺も一筋縄でいくキャラではないのが面白い。そうしてアンソロジーで気に入って本作を手に取ったわけだが、以下四編共通するのは、中田永一という作家の書く人間関係の鮮やかさと言ったところだろうか。どれも愛おしい4編である。

 主人公はいずれも謙虚で、主人公という属性を背負ってはいるが積極的に物語を引っ張ろうというキャラクターではなく、むしろ巻き込まれ型のタイプである。ただその感覚というのは小説における感覚というよりも日常における感覚、つまりある程度の人間関係を保っているといつの間にか面白いことやめんどうなことに巻き込まれていた、という誰にでもあるような経験を下書きにしているように思える。その上であからさまに共感を誘うのではなく小さな仕掛けを放り込みながら、ちょっとしたどんでん返しも読者に期待させる、非常に読んでいてわくわくする短編集であった。濃厚に肉体を絡め合うような描写は一切なく、むしろ恋なのか恋じゃないのか分からないような、恋の初期衝動の手前にある境界の曖昧さを楽しむというのが本作のふさわしい読み方だろう。恋愛小説を読むために本作を買った人はやや物足りないかもしれないが、ちょっと軽く息をつきたいとき、忙しい日常で肩を休めたいときに本作を開くとほおが緩むことうけあいである。

 簡単に内容紹介を。表題作「百瀬、こっちを向いて」は百瀬の存在感に尽きる・・・と思いきや現実は色々複雑らしい、というのが率直な感想。人の心という簡単に見ることができないものが一番のミステリーであるなあ。人の心が見えないことそれ自体に良し悪しはないとしても、目の前で見えていることが真実ではないんだよ、という当たり前のことを人は忘れがちである。何かが順調なときほど、おそらく。『LOVE or LIKE』というアンソロジーに収録された「なみうちぎわ」も見えない人の心と、やさしさの本質を描いたものだ。本作の中で示されているやさしさはシンプルなものかもしれないけれど、単に目の前に示すことはできないもの。シリアスに深く書こうとすれば書けるものを、短い中で思ったよりもあっさりまとめているところがかえって好感したのは、本作におけるやさしさの根源を思うから、かな。それでもセンチメンタルにすぎるかもしれないけれど。

 後半は別の雑誌に書かれた「キャベツ畑に彼の声」と書き下ろしの「小梅が通る」の二作。後者がすごくいい、本作の締めにはぴったりである。「キャベツ畑に彼の声」は先生と生徒というある意味王道路線を描きつつ、ちょっとしたサプライズをいくつか用意することで笑いも換気させるのである。「小梅が通る」にしてもそうだが、爽やかさとコミカルさを兼ね備えた恋愛小説という中田永一の軸がこの二作でできあがったのかもしれない。「小梅が通る」柚木は「百瀬、こっちを向いて」の相原の性別を変えたようなキャラクターかな、と思って読み始めたらちょっと違うらしい。本作が一番ストレートに、恋の初期衝動を表しているような気がする。それは山本寛太というクラスの男子と柚木との距離が近くて遠い場所から始まることにあるだろう。ただいわゆる恋の駆け引きとはちょっと違った駆け引きが繰り広げられて、先行きが見えない。どうなる、どうばらす?という読者の浮遊した気持ちそのままに、寛太は走り、柚木は迷う。

 中田永一のストーリーテリングのうまさというのは、限りなく読者の側に近い感覚を提供しながら、終盤であっさりと覆してしまうところで、またそれに違和感がないところだろう。気持ちよくやられた、という感覚がどの短編(「なみうちぎわ」は爽やかさという意味では少し違うかもしれないが)を読んでも味わえる。主人公を中心とする人間関係の豊かさ、かつ型にはまることのない彼らを短い中でも効果的に書き分けているからこそ、派手な演出とは無縁だが絶妙な感慨を呼び起こすことに成功している。私たちの日常という”こっち側”のお話であると思わせておいて実はそうじゃなかった!と突き放されるのは実に楽しい。

 伊坂幸太郎の『砂漠』に「人生における最大の贅沢とは、人間関係における贅沢である」という一節が出てくるが、本作の主人公たちはこのことを(束の間かもしれないが)実感しているに違いない。そして読者も、ページをめくるたびに味わえるはずだ。


2010/10/12

短編集
1百瀬、こっちを向いて2なみうちぎわ3キャベツ畑に彼の声4小梅が通る)

初版
2008/5(祥伝社)
2010/9(祥伝社文庫)

Back