マウス


 村田沙耶香を初めてちゃんと読んだのは2013年の『新潮』1月号に掲載されていた「生命式」というマイルドなカニバリズムを書いた小説で、性や生について書く人なんだろうなという印象を受けた。他の著作の評判やデビュー作『授乳』というそのタイトルからも想像できることだが、その前提で『マウス』を読むと彼女にしてはまた少し違う形の小説、なのかもしれない。

 2人の女の子が主要なキャラで、主人公の田中律(*1)と、暗い印象からクラスの中でいじめられていた塚本瀬里奈。律は家族の中でも学校の中でもおとなしくつつましく生きることで、自分を保つ女の子。他方瀬里奈は自分を出すことがまったくできず、がゆえに元気な女の子や男の子からいじめられる日々を送る、という関係。あることをきっかけに接近したこのふたりだが、実は瀬里奈には「くるみ割り人形」を持ち歩くほど愛読しており、トイレでこっそりと読んでいたのだった。本書にはこのふたりの出会いと交流を書く小学生時代の話と、律が成長して大学生になったあとに瀬里奈と再会する話が収められている。

 こうしたあらすじを書くと瀬里奈が律と出会うことで変化、成長していく物語が構想される。実際はそのように進んでいくし、瀬里奈は自分の出し方をまったく知らなかっただけで、ひとつのステップを踏み越えたあとの変貌ぶりは目を見張るものがある。化けた、という言葉がふさわしいともいえる。しかしそれは客観的なものであって、主観的なものではない。主観的にはあくまで彼女は、「演じる」ことで現実と向き合おうとする。その自覚は瀬里奈よりも、瀬里奈を見ている律のほうが強い。そして律は瀬里奈の成長を見守る一方、ほんとうにそれでいいのかという疑問も抱くようになっていく。

 スクールカーストという言葉がある。学校のクラスの中での上下関係をカースト的なピラミッドのイメージでとらえた言葉だが、瀬里奈はかつてこの最下層の存在だった。瀬里奈の”成り上がり”方よりも、カースト上位の子たちが瀬里奈をいかに人としてまっとうに扱わないか、という描写には生々しくどぎついものがある。かつての自分ももしかしたらそうだったのかもしれないが、幼さと無邪気さはそれが暴力的な方向に向いたとたん、容易に自制できず、また周りも制止することが難しい。それは理性がまだ発達しきってないからという個人としての問題や、カーストという構造が環境的に及ぼす影響などさまざまあると思うが、このような状況下で律が「マウス」として小さく立ち居振る舞うという戦略もまたリアルで切実なものがあると感じた。

 成長した律は自分の足で立とうとするが、何かを目指しているわけではない。他方で瀬里奈は客観的にはあこがれられる居場所を見つけるが、彼女自身はまだ不安定なままだ。ふたりにはまだ、役割と承認のふたつが必要だったのか、もしくはそれを不要として生きていこうとするのか。後半部分の読みどころはこのあたりになるだろう。役割によって自分が変わったとしても、承認という客観的な基準がなければ役割の効用が不十分になる。しかしながら役割と承認のふたつに依存したまま生きていくことは可能なのだろうか。ふたりがふたりでいられるように、ではなく、ひとりとひとりになったときに、それぞれの道を生きていくということが可能になるのだろうか。

 村田ははっきりとふたりの関係の道筋を示したわけではない。役割と承認は時には必要なものだし、時には必要なものではなく害を与えるもの、としても書いている。

「律に嫌いって言われて、初めてショックを受けた。私、小さいころからずっと一人で泣いてただけだったし、それからはずっとマリーだったから、誰かとちゃんと嫌いあうほど親しくなるのは初めてだった。思っていたよりもずっと、やだった」 (講談社文庫版、p232)

 役割を与えることは夢を見ることだ、とも思う。いつから夢から覚めて、現実に向き合ったとき、役割から解かれた「ほんとうの自分」と初めて向き合い、他者とも向き合えるようになるのかもしれない。


*1 余談だが「けいおん!」の田井中律と一字違い(正確には一字足らず)で、呼ばれ方が律ちゃんであることから完全にダブったのは言うまでもない。性格は全然違う。


2014/1/30

初版
2008/3(講談社)
2011/3(講談社文庫)

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