生きてるだけで、愛


 「生きてるだけで、愛」かあ、というのが読み終わってすぐの感想。生きてるだけってどういう状況なのか、その中で生まれる愛ってなんなんだろう。そうした意味深なタイトルと北斎の絵を表紙にした(色がおかしいんだけど)ところに惹かれて購入。本谷有希子という若手作家の名前はずっと耳にしていたのもあって、読んでみようと思った。

 生きてるだけで、愛、である。主人公の寧子と津奈木の同棲(のようなもの)カップル、そして安堂という津奈木の元恋人との三角関係・・・を描いているようで描いていない、あくまでつづられるのは寧子を軸とする20代男女の日常である。日常というより、生活といったほうがいいかもしれない。津奈木はほとんど家から出るシーンがないし、安堂はわーわーと寧子を責め立てるだけのポジションだし、寧子だけが若干自分の生活空間を外に広げようとする(後半では突発的にレストランでバイトをはじめるし)中で、彼女が感じたこと、得たものをつづる。人の書いた詳細な日記を読んでいるような感覚がして、日常の物語であると同時に非常に等身大の物語である。かつ、エッジが効いた文章が楽しい、といったところだろうか。

 だから、文庫版解説で仲俣暁夫が書いているように、「この物語を、はたして、『恋愛小説』と呼んでいいのだろうか」という指摘は正しい。的を射ているというか、恋愛小説は恋愛という大きな核があって人間模様が描かれているが、本作の場合は寧子と津奈木の間に漂っているのはどうしようもない生活臭である。パソコンをいじったり、「メンヘル」な自分を責めたり、恋愛小説において必須要件ともいえるセックスは三日も風呂に入ってないからするはずもないし。いっぽうで、生活臭が漂うのはそれだけの描写があるからである。その描写もあくまで生活を浮き彫りにするためのものであって、それ以上ではないのだが。

 その日常がアルバイトを始めることで一変する。当たり前と言えば当たり前だが、前半の生活臭しかしない描写と、アルバイトを始めることでようやく「他者」と出会い、交流することの間にどれだけの差があるか、ということは少なからぬひきこもりを経験した人になら分かるのではないだろうか。特に一人暮らしの大学生が長期休暇にでも入ると、家にいるときと外にいるときの愕然とした違いにリズムを狂わされたりするものである。そうか、ひきこもり小説だったのか!というつもりはなくて、あくまで伏線に過ぎないあたり、本作が辛うじて恋愛小説の体裁を持っているといってもいいかもしれない。そうでなければほんとうに、日記といっても遜色はないだろう。

 寧子に絶対的に欠けていた出会い、出会うことでストーリーが生まれ、気づきが生まれる。逆に、そうしたある意味当たり前のことを当たり前に実感しづらい世の中、つまり一人ではしんどいだろうが二人で同棲してたらなんとかなってしまうのが現代なのかもしれない。そう、もっとひきこもりはひきこもり同士シェアルームをすべきなのだ(冗談) 日常(というか生活)に閉じこもっていく中で、埋もれてしまったものは何なのか、どうやったらもう一度輝くのか。本作を読めば、少しヒントが見えてくるかも知れない。なるほど「生きてるだけで、愛」というタイトルが、読む前と読後ではかなり印象が違って見えてくる。

 表題作のあとにかなり短い「あの明け方の」という小話がおさまっている。これも表題作と構造はけっこうにていて、日常が外に少しでも開いたときに、意外と面白いものに出会えるかも知れない、というお話。表題作と共通しているのは、本作で使われている言葉、もしくは言葉の指すものはおそらく現代の人が読んだら多くの人が理解できるだろうが、素少し前と少し後の時代なら分からないかもしれない。今だからこそ、かなりのリアリティを持って味わえる。なんていうか、チキンラーメンは卵を入れるとおいしいよね。

 表題作は芥川賞候補にもなったようで、近々受賞してもおかしくはないだろう。彼女にしか書けない感覚と、そのリアルさと本気さを、もっと読みたいなあと思わせてくれる小説ではある。表題作の、途中までの展開からラストへ向けた流れ、そこで描かれる感情の機微は多くの恋する人(特に若い人)に通底するものであろうから。


2011/2/27

中短編集(1.生きてるだけで、愛2.その明け方の)

初版
2006/7(新潮社)
2009/3(新潮文庫)

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