六つの星星


 川上未映子が『乳と卵』で芥川賞をとり、『ヘヴン』でブレイクするころまでの対談をまとめた一冊。主に彼女の作風や文体についての議論や、転じて身体性(とりわけ女の身体性)に関する話題が多い。対談相手の6人は斎藤環、福岡伸一、松浦理英子、穂村弘、多和田葉子、永井均。斎藤環、福岡伸一以外は人文系の人が中心となっている。なっているが、学者から作家、詩人まで網羅するのは川上らしいといったところだろうか。

 最初のふたり、斎藤と福岡との対話はふたりの専門性への川上の関心と、斎藤、福岡それぞれの川上小説への関心といった形で対話が展開されていく。斎藤とは性やセックス転じて快楽や享楽についての話題が続き、福岡とは生命のありようから言葉や自我といったアイデンティティにまつわるっ話題へと移り変わっていく。斎藤環は自分の話をややしすぎていて、川上が控えめになるのだが福岡との対話は福岡らしい落ち着いた対話が川上との間で続く。このへんは良くも悪くも、個性が出ていて面白いなあと読んでいて感じるところでもある。

 福岡との対話で、生物や生命の話をしながら自己や自我という、哲学的、あるいは存在論的な話題に転じていくあたりは福岡と川上の関心がきれいに交差しているように思える。生命を探求する福岡も、身体を探求する川上も、ともに関心は人間だけにとどまらないことを再確認できるのは一つのカタルシスでもある。あるいは、人を問うことを続けていたら人におさまらない、ということが福岡の語りから観察できた発見でもあり、川上、福岡ともにWhyという探求を続けてはいるが決して答えは見つからないということにもつながるのかもしれない。いや、はっきりとした答えは分からないが、かすかなヒントは見えてくる。そこからまた問いが始まり・・・という繰り返しを、川上も福岡も実に楽しんでいるように思える。

 松浦里英子との対話は性や身体性についての対話になる。松浦里英子はほとんど読んだことはないが、とりわけ女という性や身体性への強い着目は川上にも通じるところがあるのだろう。女性とは何か、女性的ではあるとはどういうことかを樋口一葉の『たけくらべ』をひきながら語るところがひとつのハイライト。

 穂村弘ともことばについての対話があるが(このパートだけ短いのでもっと長く読みたかった感じではある。穂村と短歌の関係性が読めたのは面白かったが)穂村→多和田葉子という流れがことばについて読み進める流れになっているのはとてもよかった。多和田との対話はことばと身体(not 脳)について。松浦との対話の流れも多少引き込みつつ、どのような言葉がどの身体の場所から紡がれるのか、という話題の展開が非常に面白い。そのあとさらに文体の話で盛り上がるふたりであるが、言葉の紡がれ方についての対話を読んだあとだと実はちょっとした作家論にもなっているようにも読める。

 しめくくりは哲学者永井均との対話2本。そういえば川上未映子も通信制で哲学を専攻しているんだったか。その1の哲学にまつわる話よりは、その2で『ヘヴン』についてガッツリ対話が交わされてるところが読み応えがあった。コジマを宗教の問題、百瀬を倫理の問題、というふうに切り口を明確に設定してスタートしているところは議論の精緻さはともかく読む側からすれば非常に分かりやすい。

 そのうえで百瀬がニーチェ的で非カント的、と持ってくるわけだが(このへんの精緻さは分かりかねるものの)結局はカントよりもニーチェのほうがより生々しい人間を想定していた、というところだろうか。天使性を求めてしまったカントに対して、現実に立脚したニーチェのほうが、たとえ手強いかもしれないが「対話」は可能になる。だからこそ目の前にある問題をあっさり解決せず、とはいえ破綻もさせず物語がじわじわと進行していくことを川上は可能にしている、と読むことができるのかな。

 個々の対話パートは短編ひとつ分かそれよりも短いくらいなのであっさりと読めてはしまうが、おのおのの区切りを持って読むのがおそらくベター。とりあえず、松浦→穂村→多和田のことば/言葉と身体についての流れをくみとりつつ読んでほしいな、といまここで書いてしめくくる。


2012/11/10

対話/対談集

初版
2010/3(文藝春秋)
2012/9(文春文庫)

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