月光スイッチ


 今のところ読んできた中で、橋本紡の小説には明確な悪人がいないし、かといってみな善人でもなければヒーローでもない。市井に生きる、ちょっと変わった人たちの生活を描写する。『流れ星が消えるまで』も大学生とその家族の日常を描写する小説だったが、ささいな生活の中にある幸福感や人間関係を描き出すことに長けているなあ、という印象を持っていた。今回は「ちょっと変わったひとたち」の生活を通すことで、彼らを肯定し、あるいは読者に対してそういう風に生きてもいいんじゃないか、と静かに伝えているような気もした。

 日本という国は概して普通でないことを受け入れない慣習がある。いわゆる、ワケアリという言葉があるのもそのせいだろう。普通の生活をして当たり前、つまり普通に進学就職し、結婚するという風に、レールに乗っかることが善であるということ。レールに乗っている間や乗れる場合ならいいが、そうでない人間にとっては息苦しさもつきまとう。ただそうした寛容の乏しい社会だからこそ、寛容を作り出そうという人々が少なからぬいるのも事実だろう。本作の主人公香織の不倫相手はつまり、そういう人間だ。

 絶賛不倫中の香織は、不倫相手のセイちゃんの妻が出産のため実家近くにしばらく帰省するのをいいことに、セイちゃんと一緒に住むことになる。名付けて、期間限定・新婚生活(仮)の実施だ。香織が普段暮らしている生活範囲を離れることによって得られる新しい出会い、そして新しい気づき。ほんのちょっとの勇気を、出すということの意味。不倫は褒められたことではないが、自分の気持ちに嘘をつけない香織は新しい生活を自分なりに楽しもうと懸命になっていく。

 面白いのは焦点の当て方だろう。一風変わった人々をブラッシュアップする一方、だからと言って異様さ(この言葉は大げさかもしれないが)を際だてるのではなく寄り添おうとするのだ。香織という良くも悪くも立ち位置が中途半端なキャラを主人公に据えることで、誰の懐にも入っていける柔軟さがあって、必死というわけではないのだけれど放っておけない

 読んでいたら気づくことなのだが、月光スイッチというタイトルが何を意味しているのかはっきりとしていない。さらに言えば、本書は小さな物語がいくつかひしめいているように見えて、一つ一つの話の連続性というよりは、それらの中に書かれてあるひとときを読み込んでいく、のが正しい読み方なのかもしれない。大きなオチや落としどころがない以上は、短編集として読んでもおかしくないと思っているくらいなので。最後がやや尻切れなのも、期間限定(仮)という言い訳が機能していることを考えると、オチのなさにはつっこめないというあたりは面白いけれど。

 つまり、本書の中にあるのは物語性でもなんでもなく、きっとどこかにあるだろう日常の風景だ。橋本紡らしいといえばらしいのだけれど、作り込みをしたということをほとんど感じさせない。本当に、あっさりと書いてしまっている。長編にしてはさほど長くないというのもあって、本書は呼吸をするように読むことができる。少しおかしな人が多々出てくる一方で、彼らを受け止めて肯定しようとする香織の存在が、そういう気持ちにさせてくれるのかもしれない。一つ一つのお話や一人一人との出会いがたとえハッピーエンドにならなくても、それでも生きていける気がする。綺麗にまとめてしまうと「日常があるということ」の価値だろうか。

 そこまで考えてようやく香織が主人公であることや、タイトルに込められた意味も見えてくる。現実はそんなに綺麗じゃないだろうけれど、生きづらさだけでもないのではないか。可能な限り生きづらさを克服していこうとする香織の姿勢は、綺麗事だと終わらせてしまうのは惜しい気がすると、読んでいて素直に感じた。

 そっと一息つくということの意味は、自分だけでなく自分の周りの人のためでもあるのかもしれないな、という思いを抱えつつ本を閉じた。橋本紡は教科書的ではない「優しさ」を書くのが上手い。


2011/8/31

長編

初版
2007/3(角川書店)
2010/1(角川文庫)

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