あなたのための物語


 あなたのための物語、というタイトルが意味することはふたつの側面があるだろう。ひとつは「あなた」とは誰なのか、だがこれは主人公であるサマンサ・ウォーカーにとってだろう。彼女以外の人間は詳細には描かれてないし、彼女くらいしか考えられない。もうすこしつっこむならば、なぜ「あなたのため」なのかということだ。そしてもうひとつ、「物語」とは何を指すのか。そしてなぜ「物語」が紡がれ、語られるのか、この『あなたのための物語』という物語の中で。

 NIP(Neuron Interface Protocol)という擬似的な人工神経を用いてITP(Image Transfer Protocol)という、意思を脳内でイメージ変換する言語が提唱された。このITPによって記述されるオリジナル言語を操る<wanna be>という仮想人格は、産みの親であるサマンサ・ウォーカーのために小説を執筆する。その内容はどこかで見聞きしたようなもののつぎはぎではあるが、<wanna be>は毎日サマンサのために執筆を続ける。ある日余命わずかを宣告されたサマンサは死を呪い、自分自身の生死と残された仕事についての葛藤を抱える。他方で同時に、<wanna be>のつづる物語が少しずつ変化していた。

 作中作としての物語と、本作そのものというふたつの物語がある、と書けば話は簡単だろう。ただ作中作の物語だけでもかなりのものがある。それらの総体としての物語が何を意味し、何を伝えようとしているのか。物語の作者がどのような意図をもって小さな物語の郡をつづっているのか。もっとふみこめば、紡がれる物語の出発点はどこだろうか?「あなたのための」という目的を示してはいるものも、なぜ「あなたのため」に物語を紡いでいるかの説明ではない。どこへ向かうかは分かっているが、どこから来ているのかがよく分からない。サマンサ自身にも、そして読者にも。

 「伊藤計劃以後を切り拓いた」と文庫版の帯にあるのだが、これはそうとも言えるし、そうは言い過ぎではないかとも思う。伊藤計劃は2本の長編で壮大な思考実験を展開しこそすれ、同時にディティールの浅さも露呈している。おそらく大きな世界を書くためには細やかさにこだわりすぎていてはバランスを欠いてしまうから、意図的なのだろうとは思う(たとえば『ハーモニー』におけるWatch Meの社会的な受容の様子であるとか)が、本作はむしろ徹底的にテクノロジーと向き合うことに主眼が置かれている。むしろ、それが全てかもしれない。とはいえ、『ハーモニー』同様、NIPやITPというテクノロジーが社会にどう受容されているか、であるとか一般的な認識はどうなっているのか、についての説明はなされない。

 伊藤計劃が大きな構想を掲げてさらに突き抜けたところを目指すのであれば、本作は小さなところから止揚されるかもしれない何かを目指している。アプローチは違うが、目指しているところは確かに近いかもしれない。生と死の隙間、人間の意識のゆくへ、それこそ「どこから来て、どこへ向かうのか」というひとつの大きな物語を描いているようにも見えなくはない。

 伊藤計劃が2本の長編で描いた結末が非常に殺伐としていたのに比べると、本作はなんて優しい余韻を残すのだろう、と思いながら読んでいた。仮想人格の見る夢というSF的なロマンチックも織り込むことで、シリアスな問題すら夢に変えてしまえる不思議な魅力(こわさでもある)が後半部分の<wanna be>の語りには垣間見える。もう一度<wanna be>の精神性を認めた上で読み返すと、前半部分の見落としに気づくかもしれない。俺が把握できたのはあくまで、自棄寸前のサマンサを呼び止める<wanna be>の優しさだが、ある日突然芽生えたものではないだろうからね。

 一方サマンサが<wanna be>に向けるまなざしは必ずしも優しいものではない。産みの親というのもあって、子どもを教育するようなまなざしを向けることもあるが、突き放す冷たさも見える。ただ、<wanna be>の語りが具体的で生々しい意図を持って表れたときのサマンサの感情の揺れはなかなかこれも生々しい。一方で死というあらがえない、本作の言葉を使うと”伝統的な”地平を見据えるしかないが、他方で自分の生み出した技術の結晶が見る夢という、まだ誰も知らない地平が広がっている。成長、ともとれるような表現や感情の変化に、サマンサは目を奪われずにはいられなくなっていく。

 そうした中で<wanna be>とサマンサは「どこへ向かうのか」、彼らの向かう先に希望があるのか絶望しかないのか。刮目せよ、は少し大げさな言い方かも知れないが、人のぬくもりという表現が陳腐に思えるほどに<wanna be>とサマンサの関係が終わりに向かって接近していく。これは伊藤計劃とは違う形で、生死の境目をとらえ、同時に超えていく試みでもあるはずだ。たとえば『ハーモニー』でミァハが一人で突き抜けていったのではなく、サマンサは最後の最後に<wanna be>というパートナーに希望を見いだす。ミァハの脳内が思い描くはずのない、「幸福な終わり」のひとつの形であろう。終わることは始めが分かっているとしても、終わらせ方はひとつではないし、誰かに決められることでもない。終わりに向かうプロセスまでが全体的でも、伝統的でなくてもいい。当たり前のようで単純じゃない、私たちが縛られている死生観を浮き彫りにしてくれる。そしてこれは言い古されているが、死について考えることは生について考えることでもある。

 生と死の境目は夢と現実の境目なのかもしれない。現実(生)の側にいるかぎり夢(死)の世界を除くことはできない。ただひとつ違うのは、夢から現実に戻ることは可能だが、死から生に戻ることはできないことだ。ただ、だからこそ終わりと向き合いながら生きていく、希望も絶望も全部ひっくるめてコミュニケーションできる相手がいることは、人生において唯一この上ない幸福なのかも知れない。人生とは一度きりなのだから。


2011/8/2

長編

初版
2009/8(早川書房)
2011/6(ハヤカワ文庫JA)

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