サマーバケーションEP


 最初に読んだのは1年前の7月で、ある出来事が終わったあとの電車の中で読み進め、その後陽の当たる部屋で一気に読み終わった。そのときの爽快感というか、何とも言えない気持ちよさを感じた。夏の暑い中東京をかけめぐる小説を、東京のど真ん中(から少し外れたところ)で読み終わったのは小説とフュージョンしている感覚があってなかなか面白かった。だけれど、この「面白かった」という感じを文章に起こすのはなかなかに難しくて、今回再読を機会に書けることを書いてみようというのが今である。
 
 読み返して思うのは、本当にただ夏の東京の午後を歩くだけということ。おおきな流れとして何かが起きてどこかへ向かうのではなく、とりあえずどこかへ向かっている間に起きた小さな出来事を多く拾いあげる。個々の物語の連続性はほとんどないのだが、街の特質を理解してないと書けないエピソードなんかも多くて読んでいながらフィールドワークができてしまうのは面白い。限りなくノンフィクションに近いような、フィクションなのかもしれない。

 歩くのは主人公を含め8人の人間だ。始めから8人だったわけじゃなく、それぞればらばらに、文字通り道中に乱入してきたような人たちもいる。国籍も経歴も職業も様々というのは、吉祥寺から隅田川という歩くコースを考えたら分からなくもない(東京を知らない人には分かりづらいが、そのへんはやむをえないか)と感じる。とはいえ、上に個々の物語に連続性はないと書いたように、全体としての物語があるわけでもない。ただ、歩くだけだ。夏休みのひととき、という空気が象徴しているのかもしれないが、茫漠として存在した時間をただ浪費するということが、それはそれでいいんじゃね?という空気がある。

 全体としての物語はないのに、彼らが歩くのはただ時間を浪費したいだけだろうか。簡単に言えばそれだけではなく、歩くことに面白さがあるからだ。大きくわけてふたつあって、誰かと歩く面白さと、歩きながら数々の「発見」を繰り返す面白さだろう。後者に関して言えば佐々木敦が文庫版解説で書いているように、EPというよりはLPと表記するほうが自然なくらいだ。それでも古川日出男がEPと題している理由はそれなりにあるのだろうけれど、ここでは省くことにする。

 さて、まずは誰かと歩く面白さについて書いてみよう。修学旅行をイメージするのが無難かもしれない。多くの場合全体行動と5人程度のグループ行動があると思うが、『サマーバケーションEP』での歩く行為は修学旅行でのグループ行動に近いように感じた。慣れてない街を誰かと歩くけれど、何人かは妙に詳しい奴がメンバーの中にいたりする。メンバーも全員が親しいわけではなく、修学旅行であるようにランダムなグルーピングが行われているような感覚。歩きながら雑談や発見したものについて語る中で、個々のメンバーが互いのことを知っていく。ゴールらしいものはあるかもしれないけれど、目指すべきものというよりは結果的に辿り着いた場所、程度のものだ。でもそれがとてつもなく楽しいのは、きっと「わくわくする何か」があるからなのだろう。そういう点も修学旅行に似ているな、と感じた。

 もうひとつ、「発見」を繰り返す面白さは旅やまち歩きの醍醐味のひとつだろう。どちらかというとまち歩きの面白さだと思うが、何かありそうな期待をしつつ見つける場合や、何もないかも知れないところで見つかる面白さ、あるいはメンバーの中に詳しい誰かがいて解説を受けたりする場合。発見と一言で言っても、複数の人と歩くことによって発見のパターンは人数の分だけ増えていく。気づきは人によって変わるということを、当たり前のようで日常の生活で実感することは少なかったりする。日常と違うのはメンバーのランダム性とか、非ルーティンの目的のない行為だからだろう。その上で、彼らが接触するのはきっと多くの日常であるはずなので、日常と非日常がくっきりと断絶しているのではなく混じり合っているのも面白いところではあるはずだ。

 本作を凝縮するとこのあたりに落ち着くのではないだろうか。と思いつつ、きっとこれはフィーリングで読むのが一番正しい。夏はもう終わるけれど、読むならぜひ夏に。読書空間が灼熱の大都市であれば、尚よし、かな。


2011/8/31

長編

初版
2007/3(文藝春秋)
2010/6(角川文庫)

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