ダナエ


 藤原伊織という作家は本格的に読書というものに没頭し始めた中学生のころから知っているし、むしろ中学のころに彼の作品を好んで読んだ。ペンネームがこうであるだけに最初は女性作家だと思っていたが、読むとすぐそうでないと分かる硬派さというかストイックさがある。ただ、それらが一種の飾りではないかとも気づかされる。ストイックにしか、生きられなかった男たちを藤原伊織は描いているのかもしれないし、もしかしたら作家自身に通じるところがあるのかもしれないな、と。

 本書の文庫版の帯に「博打を愛し、酒を愛し、煙草を愛し、放蕩と逸脱を愛し、そして逝った作家」という長い形容詞が記されている。デビューしたのが平成になってからというのがびっくりするくらいだが、純文学以外で彼のような作家はなかなかいないだろう。つまり、作家であるということが生き様そのものであったり、一種の美学にもなっているということ。作家というよりは芸術家と表した方が適切かもしれない。古典的な文学者のように自死まではしなかったが、ガンを抱え、闘って死んでいったという生き様は十分ストイックである。

 本書を読んでいてもそうした生き様が随所に垣間見える。たとえば表題作「ダナエ」の宇佐美などは典型的だろう。目の前の物(ブツ)よりも対話を試みようとする姿勢は常人には理解できない。が、理解できないということが快感でもある。自分自身、あなた自身が彼のように必ずしもなれるわけではないという、その一点がある。

 さらに、収められている3作「ダナエ」「まぼろしの虹」「水母」のいずれもそうなのだが、短い中である程度の時間的長さをストーリーの中に織り込んでいる一方で、書かれている現在に至るまでの空白期間を丁寧に描写もしくは作中の人物に語らせようとしていない。「まぼろしの虹」では謎解きの際に若干触れているが、「ダナエ」では過去に宇佐美の家族に何があったかは詳しく書かないし、「水母」でも真弓と神保との関係には触れる一方、麻生と真弓との関係を詳しく述べてない。ただ、それは敢えて記述を避けようとしているのではなく、そもそも不要なのかも知れない、ということを読んでいて感じる。

 その理由は、前にも書いているように生き様、という部分に通じてくる。藤原伊織は、ストーリーそのものを書きたいのではなく、あくまでも宇佐美であったり麻生であったり、主人公の目線を書こうとしているにすぎない。「ダナエ」であれば、宇佐美自身の葛藤を掘り下げ、最終的にある人物と対峙させることが読み物としての筋であって、それ以上は必要ではないのではないか、と。大事なのは何をしてきたか、ではなく今をどう生きたか、であって、それを閉じこめることが藤原伊織にとって小説を書くこと(少なくとも本書では。長編ではまた別)であるような気がしてならない。

 もっと言えば、書き出したいことは主人公の内にあるストイシズムである。作家自身がそうであった(かのように見える)ように、3編いずれの主人公も感情を素直に表さない男たちであり、ある女性を愛し、自分の生き様も愛している。必ずしも器用というわけではないし、男臭くて、生臭い生き方を肯定するかのように、魅力的な人物に仕上げている。本を読んでいて、その中の人物に惹かれるということは珍しくないが、こうも短い話の中で人の魅力を表現してしまえるのは作家としてのひとつの才能だろう。その才能はもちろん『テロリストのパラソル』以降の長編作にも十分発揮されていることではあるが。

 あと2作ほど本作のあとに出版されているが、「水母」は藤原伊織の没年に書かれたと思われる(雑誌での出版が2007年ということからの推測)ので、最後の最後まで”らしさ”がにじみ出る良作だったし、全体として非常に読書の意義も確かめつつ読める一冊でした。以上、月命日であることを鑑みて合掌しつつ。


2011/4/17

中・短編集(1.ダナエ2.まぼろしの虹3.水母)

初版
2007/1(文藝春秋)
2009/5(文春文庫)

 

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