パトロネ


 パトロネとはなんだろうかと思いながら(最初はパトロネージのことだと思った)読み進めた表題作と、いけにえというひらがな四文字の不気味さを最後まで残した「いけにえ」の二編。単行本が出たのは一年ほど前だが、この早いタイミングで文庫化というのはおそらく芥川賞受賞の影響だろう。処女作より二冊目の著書が先に文庫になるというのは珍しい。すでに「爪と目」を読んで藤野可織がどういった小説をどのような表現で書くかというのを先に把握できているので、読みづらさはさほど感じなかった。「パトロネ」は少しやっかいだが、「いけにえ」は単純な構造なのでより読みやすいと思う。

 「爪と目」で藤野が試みたことは、まずタイトルにあるように爪、目の二つの体の部位をイメージさせること。主に登場するのはほとんど不在のものとして書かれる父、その父があとで結婚した新しい妻である母、そしてその新しい母と同じ空間で生活することになった(家族のなのでごく当たり前だ)娘であるわたし。そのわたしと母の女性同士の奇妙な関係を、時間を追って描写していく。だがその時間の変化は必ずしもはっきりとは明示されず、語り手である一人称のわたしを見失いかねないというトリックがあった。このため、最初に新しい母を迎えいれるときに三歳だったわたしを、最後まで三歳の少女のままであると誤読した人が多く見られた。

 語り手と、その語りでが対峙する相手の関係を「パトロネ」でも書こうとする。大学生である私と、大学進学を機に一緒に住むことになった妹との関係だ。一人で住むには比較的広い部屋に住んでいた私は、妹を迎え入れたあと、五畳ほどあるロフトに居住の場を移す。妹は床で、姉は上のロフトでと、同じ部屋、同じ空間で生活しながら、違う場所で暮らしているような二人の関係が淡々と続いていくようになっている。要は、この姉妹は部屋の中で線を引いたのだ。そしてその後、ある出来事を境に妹が部屋を空けたまま帰ってこなくなる、というあらすじ。

 はじめに戻ると、「パトロネ」とはフィルムカメラに必要な「フィルムがおさまっているあの小さな円筒形の缶」のことらしい。妹が写真部に入ったことをきっかけに私も写真部に入ることになるのだが(つまり、妹を後追いする)そこで部員の手伝いをしながらカメラにまつわることを少しずつ覚えていく。重要なのは、妹はカメラを持ち写真を撮るが、私は写真を撮ることはしない。なんとなく部室に行き、手伝いをしたり、雑談に加わったり(文化系の部活にありがちな、部室でぐだぐだと過ごすようなものだろう)するくらいだ。

 藤野は、語り手である私そのものをカメラのように動かす。一人称だから当たり前だが、物語は彼女の視点でつづられていく。彼女の見ているものがすべてではないとしても、そうあるように錯覚させられる。カメラも、現実の世界の一部を切り取る道具であると考えるなら、私という主体も似たようなものだと考えていい。このカメラアイについては文庫版解説で作家の星野智幸も触れている。星野は藤野の小説を「精緻なリアリズム」であると定義する。そのあとに続く言葉を引用しよう。

 「パトロネ」でも、語り手「私」の意識が捕らえるものは、片っ端からつぶさに描写されていく。言葉数を費やすのではなく、過不足のない形容詞や比喩で簡潔に対象を再現する。大袈裟でもなければ淡泊でもない。文章自体に、調性がない。
そして、ここが面白いところなのだが、「私」の意識が向いたものであれば、何でも同じくらいの正確さで、ピントが合う。一般には、どこかにピントが合えば、その前後はピントがぼける。焦点が絞られることで、遠近が表される。けれど、藤野さんの小説は、手当たり次第にピントが合っていく。そして容赦ないまでに正確に、言動や物事が描かれる。
(『パトロネ』集英社文庫、pp199-200)

 この引用すべてに同意というわけではないが、藤野のカメラアイがどのような性質を持っているかについては星野智幸の説明で十分だろう。「爪と目」でもそうだったが、藤野の小説は描写に余念がない。けれども最終的に爪と目という二つの部位に焦点が当たっていくのが(星野の言葉を借りればピントが合っていく、と言っていいかもしれない)「爪と目」という小説だった。対して「パトロネ」は、ピントが合うことはない。それどころか、ピントが合わないでいるといつのまにか時間を超越してしまう。ある対象を見て、過去のことを思い出すという行為は別に珍しいことではないが、このとき、語り手の私はいったい誰なのだということになる。「爪と目」ではある地点からの回想という形式をとっているため、はじまりから数えると時間が基本的に進んでいく構造になっているが、「パトロネ」はそう単純ではないのだ。

 ではなぜ藤野は時間を超越する(正確には、超越しているように読めてしまう)という複雑な構造をとりながら物語を進めていくのか。単純な回答としては、私がそのように想起したから、過去の出来事を思い出したから、と言えるだろう。最終的にあるところに収斂していくのは「爪と目」と似ていて、似たようなことを別の小説でやったのかと今なら気づく。話を時間のトリックに戻すと、正確な回答ではないかもしれないが、生きていることの手触りのようなものを私が感じたから、とは言えないだろうか。過去があって、はじめて現在があるように、人は時を重ねる。しかし、それは常日頃から経験する事実ではない。私は何度か皮膚科を訪れ、二十歳を過ぎたあとの肌の老いについて考える。老化するということはこれからも生きていくということである。そうして先のことを考えるようになった私が、過去のことを思い起こし、妹が不在の部屋に新たな誰かを過去から招き入れたとしても、不思議ではない。私が上の陣地にいて、誰かが下にいる。それが私にとって正常な日常だからだ。

 二編目の「いけにえ」は芥川賞候補になったようだが、さほど優れた小説ではない。とりわけ「パトロネ」を読んだあとだと、アイデアで勝負しすぎではないかと思う。その上で指摘しておくとすると、「パトロネ」も「いけにえ」も、他の誰かはそう思わなくても、ある誰かにとっては一つの空間が不穏なものになりうる、ということだ。「パトロネ」における妹は、部屋で普通に生活していただけだが、妹を常に見下ろせる位置で暮らしている(逆に、妹から見ると姉はほぼ不可視な位置にいる)私とでは、空間のとらえ方が違う。「いけにえ」でも久子にとっては、あの展示室が悪魔でもいそうな不穏な空間にしか思えなかったのだ。

 藤野可織をホラーと称する向きもあるが、ホラーという非現実な感覚ではなくて、もっと生々しく手触りのある、妙にリアルな感覚が藤野の小説には宿っているのだろうと、改めて感じた。それは芥川賞後のインタビューなどでも繰り返し述べているように、大学院で美学を専攻した彼女ならではの、対象に対する向き合い方なのだと思う。対象を正確に言葉に表すこと、そしてその表現に一番ふさわしい文体を選ぶこと。美学を専攻していた彼女が文字に向かうとき、いつのまにかその行為が文学的なものになっていた。ということだと、理解している。


2013/11/1

中短編集
1.パトロネ2.いけにえ)

初版
2012/3(集英社)
2013/10(集英社文庫)

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